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田中義隆氏の『ベトナムの教育改革』が出版されました
昨年8月まで3年間、私達がベトナム北部のバクザン省で取り組んでいた小学校教員研修の経験が、副総括の田中義隆氏(国際開発センター主任研究員)によって『ベトナムの教育改革:「子ども中心主義」の教育は実現したのか』(田中義隆著、明石書店発行、2008年10月発行、4000円+税、約350ページ、)という立派な本にまとまりました。

ベトナムの教員研修プロジェクトについては、以前に私もこのブログで簡単に紹介させていただいたことがありますが、本当に多くのことを学ばせていただいた、思い出深いプロジェクトです。それが、この本を通して多くの方に知っていただける機会を得ることになり、本当にうれしく思います。
途上国の教育問題にかぎらず、日本の教育の参考にもなると思いますので、広く教育に関心のある多くの皆様に読んでいただければ幸いです。

ベトナムの教員研修プロジェクトについては、以前に私もこのブログで簡単に紹介させていただいたことがありますが、本当に多くのことを学ばせていただいた、思い出深いプロジェクトです。それが、この本を通して多くの方に知っていただける機会を得ることになり、本当にうれしく思います。
途上国の教育問題にかぎらず、日本の教育の参考にもなると思いますので、広く教育に関心のある多くの皆様に読んでいただければ幸いです。
国連フォーラムの「私の提言」にシエラレオネからの提言を投稿しました
生来の怠け者のため、すっかりこのブログの更新もサボっておりましたが、また自己宣伝をさせていただきます。
私が今年6月末まで3年3ヶ月間かかわってきました西アフリカの「シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査」の経験を基に、国連フォーラムの「私の提言」シリーズに、「緊急援助から開発協力へのスムーズな移行のために:シエラレオネでの「学校を通したコミュニティ開発」の経験から」という拙文を書きましたところ、先週より以下のホームページで公開されました。
http://unforum.org/teigen/13.html
大変未熟な提言に過ぎませんが、関心のある方や暇で退屈な方は見ていただき、忌憚のないご意見・ご批判をいただけましたら幸いに存じます。
なお、「シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査」に関心を持ってくださった方は、以下のホームページもあわせて見ていただければ幸いです。
http://project.jica.go.jp/sierraleone/0605498/
いつも宣伝ばかりですいませんが、よろしくお願いいたします。
kiyokiyo @ ネパール・カトマンズ
私が今年6月末まで3年3ヶ月間かかわってきました西アフリカの「シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査」の経験を基に、国連フォーラムの「私の提言」シリーズに、「緊急援助から開発協力へのスムーズな移行のために:シエラレオネでの「学校を通したコミュニティ開発」の経験から」という拙文を書きましたところ、先週より以下のホームページで公開されました。
http://unforum.org/teigen/13.html
大変未熟な提言に過ぎませんが、関心のある方や暇で退屈な方は見ていただき、忌憚のないご意見・ご批判をいただけましたら幸いに存じます。
なお、「シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査」に関心を持ってくださった方は、以下のホームページもあわせて見ていただければ幸いです。
http://project.jica.go.jp/sierraleone/0605498/
いつも宣伝ばかりですいませんが、よろしくお願いいたします。
kiyokiyo @ ネパール・カトマンズ
4/12(土)の第100回「開発援助と人類学」勉強会のご案内
私が事務局を務めている「開発援助と人類学」勉強会では、2008年4月12日(土)午後2時〜5時に、東京・幡ヶ谷のJICA東京で第100回記念となる「開発援助と人類学」勉強会を開催することになりましたので、下記の通り、案内文をのせておきますね。
1994年2月に開始したこの勉強会も、最近は主宰者が忙しくなり、めったに開かれなくなってしまいましたが、100回達成を記念してこれで一区切り(最終回)とさせていただく予定です。14年間の間、多くの皆様に参加していただき、ありがとうございました。(ちなみに、私は2008年3月27日から3ヶ月間、西アフリカのシエラレオネに出張中のため、第100回には参加できない予定です。残念です)
***************************************************************
皆様
いよいよ「開発援助と人類学」勉強会の第100回記念を挙行します。
基本となるのは2008年3月末に刊行予定の『アジ研ワールドトレンド2008年4月号』での特集「開発援助と人類学」で、この号には鈴木紀、関根久雄、藤掛洋子、杉田映理、小國和子、真崎克彦、佐藤峰、佐藤寛が執筆しています。
なので、開人のこれまでの歴史をふり返りつつ、「人類学者と開発援助の関係性の今後」を皆さんと議論できればと思います。当日は今回の特集号を片手に(レジメ代わりに)、相互の論文が問題提起している点についてディスカッションをする、という趣向です。通常の時間帯では時間が足りないので、思い切って土曜日の午後一杯(午後2時から一応5時まで)
を使ってやります。場所はJICA東京(幡ヶ谷)を確保しました。
なお、最近関根久雄さんたちが中心となって『開発人類学』の翻訳もできましたし、白川千尋さんたちが編集した『みんぱく実践人類学シリーズ』も刊行されはじめましたので、こうした書籍も当日会場で販売予定です。
では、大勢の皆様の参加をお待ちしています。
「開発援助と人類学」勉強会代表
佐藤 寛
「開発援助と人類学」勉強会、第100回記念
■日時 2008年4月12日(土)午後2時〜5時
■場所 JICA東京(幡ヶ谷)ブリーフィングルーム(定員96名)
(京王新線 幡ヶ谷駅下車(南口出口)徒歩8分もしくは
地下鉄千代田線 代々木上原下車(北口出口)徒歩12分)
JICA東京の場所は、こちらをご参照ください。
http://www.jica.go.jp/tokyo/office/about.html
■タイトル:「開発援助と人類学:冷戦・蜜月・パートナーシップ」
■報告者(予定のため、変更の可能性があります):
鈴木紀「日本の開発と人類学者の関係」
関根久雄「開発援助における「人類学的」とは何か」
小國和子他「よそ者介入としてのフィールドワーク」
藤掛洋子「エスノグラフィーと援助の評価」
■パネルディスカッション
モデレーター 佐藤寛
パネリスト 鈴木紀、関根久雄、小國和子、藤掛洋子、杉田映理、
真崎克彦、白川千尋、佐藤峰他
■参加費 500円(会場費・資料費として。当日徴収します。参加者には
『アジ研ワールドトレンド・2008年4月号』(定価630円)を
配付資料として差し上げますので、500円以上の価値があります!)
■申し込み方法:
参加ご希望の方は、2008年4月9日(水)までに電子メールで、
件名に「第100回「開発援助と人類学」勉強会参加申込」と記入し、
氏名、所属、電子メールアドレスを記入の上、田中清文(E-mail:
kytanaka@ka2.so-net.ne.jp)あてにお申し込みください。
なお、会場の関係から定員は96名で、希望者多数の場合は、
先着順とさせていただきますが、参加できる方には特に返事を
いたしませんので、メールで連絡がない場合はどうぞご参加ください。
1994年2月に開始したこの勉強会も、最近は主宰者が忙しくなり、めったに開かれなくなってしまいましたが、100回達成を記念してこれで一区切り(最終回)とさせていただく予定です。14年間の間、多くの皆様に参加していただき、ありがとうございました。(ちなみに、私は2008年3月27日から3ヶ月間、西アフリカのシエラレオネに出張中のため、第100回には参加できない予定です。残念です)
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皆様
いよいよ「開発援助と人類学」勉強会の第100回記念を挙行します。
基本となるのは2008年3月末に刊行予定の『アジ研ワールドトレンド2008年4月号』での特集「開発援助と人類学」で、この号には鈴木紀、関根久雄、藤掛洋子、杉田映理、小國和子、真崎克彦、佐藤峰、佐藤寛が執筆しています。
なので、開人のこれまでの歴史をふり返りつつ、「人類学者と開発援助の関係性の今後」を皆さんと議論できればと思います。当日は今回の特集号を片手に(レジメ代わりに)、相互の論文が問題提起している点についてディスカッションをする、という趣向です。通常の時間帯では時間が足りないので、思い切って土曜日の午後一杯(午後2時から一応5時まで)
を使ってやります。場所はJICA東京(幡ヶ谷)を確保しました。
なお、最近関根久雄さんたちが中心となって『開発人類学』の翻訳もできましたし、白川千尋さんたちが編集した『みんぱく実践人類学シリーズ』も刊行されはじめましたので、こうした書籍も当日会場で販売予定です。
では、大勢の皆様の参加をお待ちしています。
「開発援助と人類学」勉強会代表
佐藤 寛
「開発援助と人類学」勉強会、第100回記念
■日時 2008年4月12日(土)午後2時〜5時
■場所 JICA東京(幡ヶ谷)ブリーフィングルーム(定員96名)
(京王新線 幡ヶ谷駅下車(南口出口)徒歩8分もしくは
地下鉄千代田線 代々木上原下車(北口出口)徒歩12分)
JICA東京の場所は、こちらをご参照ください。
http://www.jica.go.jp/tokyo/office/about.html
■タイトル:「開発援助と人類学:冷戦・蜜月・パートナーシップ」
■報告者(予定のため、変更の可能性があります):
鈴木紀「日本の開発と人類学者の関係」
関根久雄「開発援助における「人類学的」とは何か」
小國和子他「よそ者介入としてのフィールドワーク」
藤掛洋子「エスノグラフィーと援助の評価」
■パネルディスカッション
モデレーター 佐藤寛
パネリスト 鈴木紀、関根久雄、小國和子、藤掛洋子、杉田映理、
真崎克彦、白川千尋、佐藤峰他
■参加費 500円(会場費・資料費として。当日徴収します。参加者には
『アジ研ワールドトレンド・2008年4月号』(定価630円)を
配付資料として差し上げますので、500円以上の価値があります!)
■申し込み方法:
参加ご希望の方は、2008年4月9日(水)までに電子メールで、
件名に「第100回「開発援助と人類学」勉強会参加申込」と記入し、
氏名、所属、電子メールアドレスを記入の上、田中清文(E-mail:
kytanaka@ka2.so-net.ne.jp)あてにお申し込みください。
なお、会場の関係から定員は96名で、希望者多数の場合は、
先着順とさせていただきますが、参加できる方には特に返事を
いたしませんので、メールで連絡がない場合はどうぞご参加ください。
雨降って地固まる:シエラレオネの住民組織が危機を乗り越えた時
もう旧聞となってしまいましたが、月刊誌『国際開発ジャーナル』の2007年11月号に私のシエラレオネの仕事のこぼれ話が掲載されました。すでに書店には並んでいない古い号の記事ですので、ご関心を持たれるかも知れない方のために、ここにコピーしてご紹介しておきます。
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雨降って地固まる:シエラレオネの住民組織が危機を乗り越えた時
良いニュースはいつ聞いてもうれしいものだが、悪いニュースはいつも寝耳に水の突然さでやってきて、心臓に悪い。その日も私達日本人は西アフリカ・シエラレオネのカンビア県プロジェクト・オフィスで、数週間後に実施予定の住民組織に対するマネジメント研修の準備に追われていた。その時突然、私達の「カンビア県子供・青年支援調査」(JICAからの発注で、国際開発センターとコーエイ総合研究所が実施中)でパイロット地区の一つであるロクプール地区を担当しているファシリテーター二人がやってきて、難しい顔で「ちょっと話したいことがある」という。
「まさかまた給料の前借りか臨時休暇を取りたいという相談じゃないだろうな」と心の中で思いつつ、重たい腰を上げて会議机に行ってみると、彼らが担当する小学校の一つで、校長先生が私達の資金援助で実施しているプロジェクトを私物化しているという噂があるという。各学校には、学校とコミュニティを同時によくしていくパイロット・プロジェクトを実施してもらうために、学校とコミュニティの代表者15名よりなる「教育とコミュニティ開発の委員会」を設立してもらったが、この小学校では、女性の校長がこの委員会のコーディネーターを務め、女性校長の夫(となりの中学校の校長である)がアシスタント・コーディネーターを務めていて、夫婦で委員会を牛耳り、他のメンバーの意見に耳を貸さず、また銀行口座に入っている委員会の資金も二人だけで下ろして使っているという非難が他のメンバーから寄せられていると言う。
私達のプロジェクトでは、問題が発生したときも、なるべく現地の人自身による解決をめざし、日本人はあまり表に出ないようにしているので、早速カウンターパートのカンビア県教育事務所のスタッフと相談し、まずは委員会の全メンバーに取材をして噂の裏を取ること、そして疑惑が本当なら、直接本人を交えて話をして、本人達による解決を支援することを決めた。
調査の結果、疑いをもっているメンバーが何人かいることは裏付けられたが、実際に委員会の資金を私物化したのかどうかについては何の証拠もない噂に過ぎないことが判明した。しかし、このような他メンバーからの疑いの火は小さいうちに消すに限ると判断し、早速カウンターパートがコーディネーターとアシスタント・コーディネーターの夫婦に会いに行き、彼らの行動に疑惑を持っている人がいることを正直に話し、そういう疑いを抱かれないように委員会の資金管理は透明かつオープンにして民主的に意思決定を行ってほしいことを話した。二人は事情を理解してくれ、アシスタント・コーディネーターは自分から「夫婦二人が委員会の要職に就いているから誤解されやすい」と辞任を申し出てくれ、また今後銀行の資金を下ろしたり委員会の資金でものを購入したりする際は、夫婦以外のメンバーと一緒に行って透明性を確保することを約束してくれた。
その後、この委員会ではメンバー間の信頼も回復され、シエラレオネの伝統的な染め物作りや石鹸づくりにメンバー全員で取り組み、特に地域の女性達の生計向上に貢献した。ここに掲げた写真はできあがった染め物を見せてくれたときの写真であるが、いろいろなわだかまりや困難を超えてこの結果を達成できた校長先生の笑顔は私達にとっていつまでも忘れられない思い出となっている。

なお、もっと詳しくこの案件(シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査)について知りたい方は、ぜひ以下のホームページをご覧ください。
http://project.jica.go.jp/sierraleone/0605498/index.html
(文責:(財)国際開発センター 主任研究員 田中 清文)
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雨降って地固まる:シエラレオネの住民組織が危機を乗り越えた時
良いニュースはいつ聞いてもうれしいものだが、悪いニュースはいつも寝耳に水の突然さでやってきて、心臓に悪い。その日も私達日本人は西アフリカ・シエラレオネのカンビア県プロジェクト・オフィスで、数週間後に実施予定の住民組織に対するマネジメント研修の準備に追われていた。その時突然、私達の「カンビア県子供・青年支援調査」(JICAからの発注で、国際開発センターとコーエイ総合研究所が実施中)でパイロット地区の一つであるロクプール地区を担当しているファシリテーター二人がやってきて、難しい顔で「ちょっと話したいことがある」という。
「まさかまた給料の前借りか臨時休暇を取りたいという相談じゃないだろうな」と心の中で思いつつ、重たい腰を上げて会議机に行ってみると、彼らが担当する小学校の一つで、校長先生が私達の資金援助で実施しているプロジェクトを私物化しているという噂があるという。各学校には、学校とコミュニティを同時によくしていくパイロット・プロジェクトを実施してもらうために、学校とコミュニティの代表者15名よりなる「教育とコミュニティ開発の委員会」を設立してもらったが、この小学校では、女性の校長がこの委員会のコーディネーターを務め、女性校長の夫(となりの中学校の校長である)がアシスタント・コーディネーターを務めていて、夫婦で委員会を牛耳り、他のメンバーの意見に耳を貸さず、また銀行口座に入っている委員会の資金も二人だけで下ろして使っているという非難が他のメンバーから寄せられていると言う。
私達のプロジェクトでは、問題が発生したときも、なるべく現地の人自身による解決をめざし、日本人はあまり表に出ないようにしているので、早速カウンターパートのカンビア県教育事務所のスタッフと相談し、まずは委員会の全メンバーに取材をして噂の裏を取ること、そして疑惑が本当なら、直接本人を交えて話をして、本人達による解決を支援することを決めた。
調査の結果、疑いをもっているメンバーが何人かいることは裏付けられたが、実際に委員会の資金を私物化したのかどうかについては何の証拠もない噂に過ぎないことが判明した。しかし、このような他メンバーからの疑いの火は小さいうちに消すに限ると判断し、早速カウンターパートがコーディネーターとアシスタント・コーディネーターの夫婦に会いに行き、彼らの行動に疑惑を持っている人がいることを正直に話し、そういう疑いを抱かれないように委員会の資金管理は透明かつオープンにして民主的に意思決定を行ってほしいことを話した。二人は事情を理解してくれ、アシスタント・コーディネーターは自分から「夫婦二人が委員会の要職に就いているから誤解されやすい」と辞任を申し出てくれ、また今後銀行の資金を下ろしたり委員会の資金でものを購入したりする際は、夫婦以外のメンバーと一緒に行って透明性を確保することを約束してくれた。
その後、この委員会ではメンバー間の信頼も回復され、シエラレオネの伝統的な染め物作りや石鹸づくりにメンバー全員で取り組み、特に地域の女性達の生計向上に貢献した。ここに掲げた写真はできあがった染め物を見せてくれたときの写真であるが、いろいろなわだかまりや困難を超えてこの結果を達成できた校長先生の笑顔は私達にとっていつまでも忘れられない思い出となっている。

なお、もっと詳しくこの案件(シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査)について知りたい方は、ぜひ以下のホームページをご覧ください。
http://project.jica.go.jp/sierraleone/0605498/index.html
(文責:(財)国際開発センター 主任研究員 田中 清文)
インドネシア南スラウェシ州地域保健運営能力向上プロジェクトのHPが公開されました
2007年2月に始まり、私も2007年8月から参加している、「インドネシア国 南スラウェシ州地域保健運営能力向上プロジェクト」のホームページが、以下のように国際協力機構(JICA)の技術協力プロジェクトのホームページの中で公開されています。
インドネシア国 南スラウェシ州地域保健運営能力向上プロジェクト
http://project.jica.go.jp/indonesia/0600379/
このプロジェクトは、(財)国際開発センターとNGOのHANDSが国際協力機構(JICA)の委託を受けて共同で実施している技術協力プロジェクトですが、郡と村レベルに地域住民主体の地域保健改善チームを作ってもらい、彼らに小規模な地域保健改善活動を立案してもらい、それに対してブロックグラント(年間20万円程度)を供与するというアプローチを取っております。
私のシエラレオネのプロジェクトでも類似のアプローチをとっておりますが、このアプローチはもともとインドネシアの中学校支援で成功したボトムアップ型のアプローチで、上(行政)から言われたことを住民がやるのではなく、自分達がやりたいを自分達で考えて実施してもらうことに特徴があり、自分達がやりたいことができるため、住民達がとても盛り上がります。専門家の役割は、住民に知識や技術を教えることではなく、住民自身による問題解決を側面からファシリテートすることにあります。保健プロジェクトですが、医療専門家が中心でない、住民が中心の珍しいプロジェクトと言われております。
このプロジェクトに興味を持たれた方は、ぜひ上のホームページをご覧になってくださいね。よろしくお願いいたします。
インドネシア国 南スラウェシ州地域保健運営能力向上プロジェクト
http://project.jica.go.jp/indonesia/0600379/
このプロジェクトは、(財)国際開発センターとNGOのHANDSが国際協力機構(JICA)の委託を受けて共同で実施している技術協力プロジェクトですが、郡と村レベルに地域住民主体の地域保健改善チームを作ってもらい、彼らに小規模な地域保健改善活動を立案してもらい、それに対してブロックグラント(年間20万円程度)を供与するというアプローチを取っております。
私のシエラレオネのプロジェクトでも類似のアプローチをとっておりますが、このアプローチはもともとインドネシアの中学校支援で成功したボトムアップ型のアプローチで、上(行政)から言われたことを住民がやるのではなく、自分達がやりたいを自分達で考えて実施してもらうことに特徴があり、自分達がやりたいことができるため、住民達がとても盛り上がります。専門家の役割は、住民に知識や技術を教えることではなく、住民自身による問題解決を側面からファシリテートすることにあります。保健プロジェクトですが、医療専門家が中心でない、住民が中心の珍しいプロジェクトと言われております。
このプロジェクトに興味を持たれた方は、ぜひ上のホームページをご覧になってくださいね。よろしくお願いいたします。
小冊子『アフリカの食料安全保障を考える』が完成し、無料配布中です
すっかり更新を怠けておりましたこのブログですが、昨日インドネシア南スラウェシ州マカッサルから2ヶ月ぶりに日本に帰国いたしました。
ところで、私が2001年から参加していた(特活)アフリカ日本協議会(Africa Japan Forum、略称AJF)の食料安全保障研究会の成果が、私の職場の(財)国際開発センター 21世紀開発基金の助成を受けて、『アフリカの食料安全保障を考える』というA5サイズ72pの小冊子となって先月出版され、アフリカ日本協議会を通して希望する方に無料で配布していただいております。
この小冊子は、AJF食料安全保障研究会が2001年以来積み重ねてきた公開セミナーをもとにまとめたもので、以下の目次にありますように、アフリカにおける飢えている人々について、気候や食生活に対応した多様な営農体系や土壌、WTO農業交渉等についての基本知識を提供するとともに、経験・体験に裏打ちされた問題提起を行っておりますので、アフリカ問題や食料問題に関心のある多くの方にぜひ読んでいただければと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
『アフリカの食料安全保障を考える』
斉藤龍一郎・田中清文・吉田昌夫編、
(特活)アフリカ日本協議会(AJF)出版
((財)国際開発センター 21世紀開発基金助成出版物)
2008年2月、A5サイズ、72p
価格:無料(ただし、送料実費負担)
目次
第1章:アフリカの食料安全保障問題(アフリカ日本協議会 斉藤龍一郎・松村愛・吉田昌夫)
第2章:アフリカの食料安全保障問題に関する体験的食料安全保障論:モザンビークの経験から(国際開発センター 田中清文)
第3章:アフリカにおける「飢えている人々」の規模−飢餓人口(日本福祉大学 吉田昌夫)
第4章:アフリカ農業の多様性を営農体系から理解する(日本福祉大学 吉田昌夫)
第5章:アフリカの土壌の特徴(京都大学 小崎隆)
第6章:アフリカ農村開発における留意点(日本大学 廣瀬昌平)
第7章:アフリカ開発会議に対する食料安全保障分科会提言(ACT2003)に向けて(国際開発センター 高瀬国雄)
第8章:グローバリゼーションの中のアフリカ−WTO農業交渉とのかかわりを中心に(近畿大学 池上甲一)
コラム:アフリカの食におけるイモ類の重要性(東京農業大学 志和地弘信)
入手方法:
小冊子『アフリカの食料安全保障を考える』を入手されたい方は、以下の申込票をアフリカ日本協議会事務局まで送ってください。申込票が受領されたら、アフリカ日本協議会事務局から送料について連絡がきます。なお、アフリカ日本協議会事務局まで本を受け取りに来られる方は、送料不要です。
--------------------------------------------------
『アフリカの食料安全保障を考える』申込票
(info@ajf.gr.jpへ送信してください)
--------------------------------------------------
『アフリカの食料安全保障を考える』 部
申込者名:
送付先住所:(〒 )
連絡先電話:
--------------------------------------------------
出版元の特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会(AJF)のご紹介:
(特活)アフリカ日本協議会(Africa Japan Forum、略称AJF)は、アフリカの人々の地域自立のための自主的な取り組みを支援し、対等な協力関係をつくることを目的とするNGOです。アフリカに関心を持つ日本の人々の結び目となり、アフリカと日本の草の根レベルの地域自立に資することをめざして活動しています。ご関心がある方は下記のホームページをご覧になって、よろしければ会員になってください。
特定非営利活動法人アフリカ日本協議会 (Africa Japan Forum)
〒110-0015 東京都台東区東上野 1-20-6 丸幸ビル2階
TEL:03-3834-6902 FAX:03-3834-6903 E-mail:info@ajf.gr.jp
Web: http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/index.html
ところで、私が2001年から参加していた(特活)アフリカ日本協議会(Africa Japan Forum、略称AJF)の食料安全保障研究会の成果が、私の職場の(財)国際開発センター 21世紀開発基金の助成を受けて、『アフリカの食料安全保障を考える』というA5サイズ72pの小冊子となって先月出版され、アフリカ日本協議会を通して希望する方に無料で配布していただいております。
この小冊子は、AJF食料安全保障研究会が2001年以来積み重ねてきた公開セミナーをもとにまとめたもので、以下の目次にありますように、アフリカにおける飢えている人々について、気候や食生活に対応した多様な営農体系や土壌、WTO農業交渉等についての基本知識を提供するとともに、経験・体験に裏打ちされた問題提起を行っておりますので、アフリカ問題や食料問題に関心のある多くの方にぜひ読んでいただければと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
『アフリカの食料安全保障を考える』
斉藤龍一郎・田中清文・吉田昌夫編、
(特活)アフリカ日本協議会(AJF)出版
((財)国際開発センター 21世紀開発基金助成出版物)
2008年2月、A5サイズ、72p
価格:無料(ただし、送料実費負担)
目次
第1章:アフリカの食料安全保障問題(アフリカ日本協議会 斉藤龍一郎・松村愛・吉田昌夫)
第2章:アフリカの食料安全保障問題に関する体験的食料安全保障論:モザンビークの経験から(国際開発センター 田中清文)
第3章:アフリカにおける「飢えている人々」の規模−飢餓人口(日本福祉大学 吉田昌夫)
第4章:アフリカ農業の多様性を営農体系から理解する(日本福祉大学 吉田昌夫)
第5章:アフリカの土壌の特徴(京都大学 小崎隆)
第6章:アフリカ農村開発における留意点(日本大学 廣瀬昌平)
第7章:アフリカ開発会議に対する食料安全保障分科会提言(ACT2003)に向けて(国際開発センター 高瀬国雄)
第8章:グローバリゼーションの中のアフリカ−WTO農業交渉とのかかわりを中心に(近畿大学 池上甲一)
コラム:アフリカの食におけるイモ類の重要性(東京農業大学 志和地弘信)
入手方法:
小冊子『アフリカの食料安全保障を考える』を入手されたい方は、以下の申込票をアフリカ日本協議会事務局まで送ってください。申込票が受領されたら、アフリカ日本協議会事務局から送料について連絡がきます。なお、アフリカ日本協議会事務局まで本を受け取りに来られる方は、送料不要です。
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『アフリカの食料安全保障を考える』申込票
(info@ajf.gr.jpへ送信してください)
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『アフリカの食料安全保障を考える』 部
申込者名:
送付先住所:(〒 )
連絡先電話:
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出版元の特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会(AJF)のご紹介:
(特活)アフリカ日本協議会(Africa Japan Forum、略称AJF)は、アフリカの人々の地域自立のための自主的な取り組みを支援し、対等な協力関係をつくることを目的とするNGOです。アフリカに関心を持つ日本の人々の結び目となり、アフリカと日本の草の根レベルの地域自立に資することをめざして活動しています。ご関心がある方は下記のホームページをご覧になって、よろしければ会員になってください。
特定非営利活動法人アフリカ日本協議会 (Africa Japan Forum)
〒110-0015 東京都台東区東上野 1-20-6 丸幸ビル2階
TEL:03-3834-6902 FAX:03-3834-6903 E-mail:info@ajf.gr.jp
Web: http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/index.html
ベトナムの現職教員研修改善プロジェクトの紹介
これまでこのホームページでは、私のシエラレオネの仕事は何回か紹介してきましたが、私が2004年11月から関わっているベトナムの仕事についてはまだ一度も紹介したことがありませんでした。それは、ベトナムの仕事での私の役割が一団員に過ぎず、プロジェクトにも部分的にしか関わっていないので、プロジェクト全体を紹介できる立場にないためなのですが、公式のプロジェクト紹介ではなくても、私の目から見たプロジェクト紹介でも(たとえそれが偏っていても)よいのではと思い直して、以下に紹介しておくこととします。
私がベトナムで参加しているプロジェクトは、バクザン省現職教員研修改善計画といい、国際協力機構(JICA)の技術協力プロジェクトです。このプロジェクトは、ベトナムのバクザン省(ハノイから北東に車で1時間半ほど行ったところにあります)の135校の小学校を対象に、小学校(1年ー5年までです)の全教員、校長、地方行政官に児童中心型教育を普及するための研修を行って、全国展開可能な研修モデルを作り上げることを目的としています。
ベトナムのこれまでの教育は、先生による講義や教科書の内容を子供が暗記するということが中心で、また正答は教科書に書いてあるひとつだけですので、優秀な子供とは「先生が考えている答えを教科書から早く探し出すことができる子供」と考えられてきました。この癖は、かつて優秀な子供だった今の教員達にも根強く残っていて、教員研修で彼ら自身の経験を知ろうと思って質問をしても、研修マニュアルのどこかに答えが書いてあるに違いないと必死で研修マニュアルをめくっている教師が大勢いる始末です。そういう、これまで自分の頭で考えてこなかった教師を相手に、「子供に考えさせる授業」を普及しようというのが本プロジェクトの狙いですので、いかに野心的なプロジェクトかがわかっていただけるかと思います。
ベトナムでは、2001年に児童中心型教育をうたった新カリキュラムが制定され、その中では、子供の自由な「創造力」や「発想力」を伸ばしたり、子供達の「考える力」を伸ばし、自分で物事を調べたり体験したりして、それを元に考えて、判断したり発見したりする学習をめざそうという立派な目標が書かれています。しかし残念ながら、子供達の「創造性」や「発想力」や「考える力」を伸ばすためにはどうすればいいのかがわかっているベトナムの先生にはまずお目にかかったことがありません。
私達は、子供達の創造性とか自由な発想を引き出したいのなら、まず上の人が言うことや教科書に書いてあることだけを正答と教えてきた、ベトナムの「一元的・単眼的な文化」を変えなければならないと考えていますが、そのことをすぐに理解してくれるベトナム人はほとんどいません。いろいろな立場の人がいれば、その分いろいろな物の見方や考え方があることを認め、ほかの人と違っていることや皆が多様な意見を持つことがほめられる文化、つまり、「少数派を認めて多様性を尊ぶ文化」を教室や社会の中に創らなければ、決して子供達の創造性は育たないと思うのです。そもそもこの複雑な世の中において絶対的に正しい答えとか、たった一つの答えというものはあまりないと思いますので、子供の頃から「相対的・複眼的な視点」から物事を見て、人の意見や教科書に書いてあることを鵜呑みにするのではなく、「自分で考えて判断する」という癖を身につけていくことが大切だと私達は考えております。
しかし、共産党の一党独裁がずっと続いていて、アメリカにもフランスにも負けたことがないことを誇りにしているベトナムの人達にとっては、このような発想はまったく思いもよらないものであるらしく、なかなか理解してもらえません。彼らはこれまでずっと、上から与えられてきた命令を疑うことを知らないまま(あるいは、疑うことが許されないまま)過ごしてきた人達であり、そういう「トップダウンの文化」にずっぽりとつかりきった地方行政官・校長・教員を対象に研修をしていると、本当に精神的に疲れることがあります。
たとえば、多くのベトナムの先生にとって、児童中心型の授業とは、単に新しい教材やゲーム(子供達に競争させるゲームがほとんどです)を使うことだったり、グループワークを形式的に取り入れることだったり(実際には一部のよくできる子が作業をして後の子は何もしていないことが多いのです)という程度で、児童中心型教育というには何か根本的な部分で間違っているのでと感じさせられることが多々あります。
そこで、私達が研修を通して強調していることは、「学ぶ」こととは「新しいことに自分で気づく(発見する)」ことであり、単に知識を覚えたり理解したつもりになっているだけでは学んだとはいえないと伝えています。つまり、先生の話を聞いたり、教科書を読んで覚えたりするだけでは本当に理解したとはいえず、自分で調べたり体験したりすることによって、自分だけの考えを形作り、発表し、他の生徒達と議論することが必要だと話しています。受け身の姿勢からは学びは生じず、自分の頭で考えて初めて学びが生じるということです。
具体的には、授業で、1)間違うことの大切さと、2)先生の話だけでなく、他の生徒の話をしっかり聞くことの大切さを強調しています。
1)は、人は間違って初めて自分の何が悪かったのかに気づく(発見する)ものですので、成功しか知らない人間には学びはなく、間違うからこそ人は学び成長するのですから、間違った生徒にはクラス全員に学びの機会を与えてくれたことを感謝しましょうねと話しています。また生徒が誰も間違わないときは、先生がわざと間違えて子供達に間違いを発見させるというテクニックも紹介しましたが、先生は偉いので間違わないんだという権威主義的な考えが蔓延しているベトナムでは、子供のためにこのような演技をしてみようという教師は残念ながらほとんどいません。
2)は、ベトナムでは特に、「同僚(仲間)から学ぶ」という発想が先生にも生徒にも欠けており(同時に、先生や子供達の間に「仲間意識」や「協同精神」もほとんど見られません)、上の人(先生にとっては校長や役人や外国人専門家、子供にとっては先生など)から教えられることを学びと勘違いしています。この「教えたい、教えられたい文化」を「同僚と一緒に学び合う文化」に変えていかない限り、先生同士や生徒同士がお互いに助け合って成長していくことはありえないと思うのです。そこで先生には、子供の発言を元に授業を展開していくこと、つまり一人の子供の発言を他の子供達につないでいき(たとえば「君は彼の意見をどう思うの?」と聞く)、他の子供達の考えも深めさせるようにもっていくことを薦めています。こうすれば、教科書通りの授業と違って、他の子供がどんな発言をするかは事前に予測できませんので、自然にどの子も他の子供の発言を注意深く聞くようになる、集中するというわけです。
私達のプロジェクトでは、「教育の質を改善する」こととは「すべての子供が授業がわかり、仲間と一緒に学ぶことが楽しいと思うこと」と定義づけており、そのような子供達の学びを保障するために、教師には特に以下の2点をわかってもらい、自分から変わってもらおうとしています。
A)教師が子供一人一人を大切に思い、子供のことをもっと知りたいと考え、授業中も子供一人一人の気持ちをいつも考え、子供に寄り添うこと。つまり、子供を力で押さえつけるのでなく、子供一人一人をしっかり観察して、その一人一人の気持ちを受け止めてあげる「誠実さ」を教師がもつこと。(このような教師を「子供をケアする教師」と呼んでいます)
B)教師が教えるのでなく、子供達が自分で調べて、体験して、考えて、気づき、報告したり発表したりできるように、教師は機会を与えたりヒントを出したり手助けをしてあげたりすること。教師の考えている答えだけが必ずしも正しいわけではないことを理解し、子供同士が学び合うことによって、子供達が自然に学ぶ機会を提供すること。つまり、教師の介入(説明・指示・要約等)は最小限にして、子供達の可能性を信じて子供達の自主性にゆだねること。(このような授業を「学び合いの授業」と呼んでます)
A)は先生の従来の「子供観」(子供は、大人がしつけ、知識を教え込まないといけない、つまり「大人が子供より上だ」という意識)を180度ひっくり返すことを求めており、B)は先生の従来の「授業観」(知識や正しい答えは先生が知っているので、それを教え込もうとする授業)をやはり180度ひっくり返すことを求めています。
この2つの変革をベトナムの学校にもたらすことはかなり大変な試みです。私達も3年たってもまだまだ成功しているとはいいがたく、B)の導入以前にA)ができていない教師がほとんどですので、まずはA)を先生の中に根付かせたいと考え、木の物差しで机をたたいて子供達を脅かして黙らせることが日常化している先生達と日々格闘しております。
そんな中でも、何人かの先生が私達の研修後、自分達が変わらないといけないと気づいてくれ、研修で習ったことを自分達でまず実践してみようと、自分のクラスで試みをはじめてくれつつあるのが、現在の希望の種といえます(まだまだ変わりたいという気持ちだけで、実際には授業は何も変わっていないことも多いのですが・・・)。
このような変わりたいと考え、変わろうと努力している教師達をサポートするために、研修対象校135校の中からパイロット校を5校選定し、このパイロット校5校では研修後、毎週1回、授業研究会を開催してもらっています。5校しか選べなかったのは、支援するこちら側のマンパワーの制約によるものですが、このパイロット校5校での授業研究会にはなるべく近隣の学校の先生にも来てもらうようにして、少しでも多くの先生をカバーしたいと考えています。
授業研究会では、先生に授業を公開してもらいます。先生には、教科書に縛られないで自分なりに工夫して授業を行ってもらい(つまり、子供達に考えさせる授業、多様な答えがありうる授業を工夫してもらっています)、また授業観察をしている他の教師達には子供の表情を中心に観察してもらっています。子供がどんな気持ちで授業を聞いているのか(あるいは聞いていないのか)を子供の表情から読み取ってもらおうとしています。そして、授業後の検討会では、一人一人の子供がどう学んだのか(あるいはどう学ばなかったのか)、先生達がみとった子供の学びのストーリーをそれぞれ発表してもらうようにしています。まずは先生達に子供をしっかり観察してもらい、子供達一人一人の気持ちをつかむ力を身につけてほしいと考えているからです。また、このような授業研究会を通して、教師達の中に、同僚から学び合う文化、同僚と助け合う文化が育ってくれればと期待しています。
このプロジェクトは来年の8月には3年間のプロジェクト期間が終わり、終了の予定ですが、上述しましたように、ベトナムの厚い文化の壁にはばまれて、なかなか思うようには進展しておりません。少しでも多くの先生がよい授業をできるようになってくれればとプロジェクトの専門家は毎週5つのパイロット校を回っていますが、今週一歩進んだかと思って喜んでいたら、翌週には2歩下がっていたりして、本当にいつになったらベトナムの学校文化が変わっていくのだろうと絶望的な気持ちになることも多いのですが、それでも「千里の道も一歩から」と自分で自分に言い聞かせながら、毎日元気を奮い起こしながら仕事に向かっているというのが現状です。まだまだ力が足りない未熟者の私達ですが、よろしければ皆様からも応援していただけると幸いです。

これまでの教育協力ではこのような教材を供与することが多く、教師や学校の文化までは踏み込んでこなかった

研修でキャベツの観察をする小学校1年生の授業のデモンストレーションをする専門家

子供と同じ目線にたって実験を指導する、プロジェクトのカウンターパート(地方行政官)


子供達が考えることを楽しみ、自分で発見したことを喜ぶ表情をどの授業でも見られるようにしたい
私がベトナムで参加しているプロジェクトは、バクザン省現職教員研修改善計画といい、国際協力機構(JICA)の技術協力プロジェクトです。このプロジェクトは、ベトナムのバクザン省(ハノイから北東に車で1時間半ほど行ったところにあります)の135校の小学校を対象に、小学校(1年ー5年までです)の全教員、校長、地方行政官に児童中心型教育を普及するための研修を行って、全国展開可能な研修モデルを作り上げることを目的としています。
ベトナムのこれまでの教育は、先生による講義や教科書の内容を子供が暗記するということが中心で、また正答は教科書に書いてあるひとつだけですので、優秀な子供とは「先生が考えている答えを教科書から早く探し出すことができる子供」と考えられてきました。この癖は、かつて優秀な子供だった今の教員達にも根強く残っていて、教員研修で彼ら自身の経験を知ろうと思って質問をしても、研修マニュアルのどこかに答えが書いてあるに違いないと必死で研修マニュアルをめくっている教師が大勢いる始末です。そういう、これまで自分の頭で考えてこなかった教師を相手に、「子供に考えさせる授業」を普及しようというのが本プロジェクトの狙いですので、いかに野心的なプロジェクトかがわかっていただけるかと思います。
ベトナムでは、2001年に児童中心型教育をうたった新カリキュラムが制定され、その中では、子供の自由な「創造力」や「発想力」を伸ばしたり、子供達の「考える力」を伸ばし、自分で物事を調べたり体験したりして、それを元に考えて、判断したり発見したりする学習をめざそうという立派な目標が書かれています。しかし残念ながら、子供達の「創造性」や「発想力」や「考える力」を伸ばすためにはどうすればいいのかがわかっているベトナムの先生にはまずお目にかかったことがありません。
私達は、子供達の創造性とか自由な発想を引き出したいのなら、まず上の人が言うことや教科書に書いてあることだけを正答と教えてきた、ベトナムの「一元的・単眼的な文化」を変えなければならないと考えていますが、そのことをすぐに理解してくれるベトナム人はほとんどいません。いろいろな立場の人がいれば、その分いろいろな物の見方や考え方があることを認め、ほかの人と違っていることや皆が多様な意見を持つことがほめられる文化、つまり、「少数派を認めて多様性を尊ぶ文化」を教室や社会の中に創らなければ、決して子供達の創造性は育たないと思うのです。そもそもこの複雑な世の中において絶対的に正しい答えとか、たった一つの答えというものはあまりないと思いますので、子供の頃から「相対的・複眼的な視点」から物事を見て、人の意見や教科書に書いてあることを鵜呑みにするのではなく、「自分で考えて判断する」という癖を身につけていくことが大切だと私達は考えております。
しかし、共産党の一党独裁がずっと続いていて、アメリカにもフランスにも負けたことがないことを誇りにしているベトナムの人達にとっては、このような発想はまったく思いもよらないものであるらしく、なかなか理解してもらえません。彼らはこれまでずっと、上から与えられてきた命令を疑うことを知らないまま(あるいは、疑うことが許されないまま)過ごしてきた人達であり、そういう「トップダウンの文化」にずっぽりとつかりきった地方行政官・校長・教員を対象に研修をしていると、本当に精神的に疲れることがあります。
たとえば、多くのベトナムの先生にとって、児童中心型の授業とは、単に新しい教材やゲーム(子供達に競争させるゲームがほとんどです)を使うことだったり、グループワークを形式的に取り入れることだったり(実際には一部のよくできる子が作業をして後の子は何もしていないことが多いのです)という程度で、児童中心型教育というには何か根本的な部分で間違っているのでと感じさせられることが多々あります。
そこで、私達が研修を通して強調していることは、「学ぶ」こととは「新しいことに自分で気づく(発見する)」ことであり、単に知識を覚えたり理解したつもりになっているだけでは学んだとはいえないと伝えています。つまり、先生の話を聞いたり、教科書を読んで覚えたりするだけでは本当に理解したとはいえず、自分で調べたり体験したりすることによって、自分だけの考えを形作り、発表し、他の生徒達と議論することが必要だと話しています。受け身の姿勢からは学びは生じず、自分の頭で考えて初めて学びが生じるということです。
具体的には、授業で、1)間違うことの大切さと、2)先生の話だけでなく、他の生徒の話をしっかり聞くことの大切さを強調しています。
1)は、人は間違って初めて自分の何が悪かったのかに気づく(発見する)ものですので、成功しか知らない人間には学びはなく、間違うからこそ人は学び成長するのですから、間違った生徒にはクラス全員に学びの機会を与えてくれたことを感謝しましょうねと話しています。また生徒が誰も間違わないときは、先生がわざと間違えて子供達に間違いを発見させるというテクニックも紹介しましたが、先生は偉いので間違わないんだという権威主義的な考えが蔓延しているベトナムでは、子供のためにこのような演技をしてみようという教師は残念ながらほとんどいません。
2)は、ベトナムでは特に、「同僚(仲間)から学ぶ」という発想が先生にも生徒にも欠けており(同時に、先生や子供達の間に「仲間意識」や「協同精神」もほとんど見られません)、上の人(先生にとっては校長や役人や外国人専門家、子供にとっては先生など)から教えられることを学びと勘違いしています。この「教えたい、教えられたい文化」を「同僚と一緒に学び合う文化」に変えていかない限り、先生同士や生徒同士がお互いに助け合って成長していくことはありえないと思うのです。そこで先生には、子供の発言を元に授業を展開していくこと、つまり一人の子供の発言を他の子供達につないでいき(たとえば「君は彼の意見をどう思うの?」と聞く)、他の子供達の考えも深めさせるようにもっていくことを薦めています。こうすれば、教科書通りの授業と違って、他の子供がどんな発言をするかは事前に予測できませんので、自然にどの子も他の子供の発言を注意深く聞くようになる、集中するというわけです。
私達のプロジェクトでは、「教育の質を改善する」こととは「すべての子供が授業がわかり、仲間と一緒に学ぶことが楽しいと思うこと」と定義づけており、そのような子供達の学びを保障するために、教師には特に以下の2点をわかってもらい、自分から変わってもらおうとしています。
A)教師が子供一人一人を大切に思い、子供のことをもっと知りたいと考え、授業中も子供一人一人の気持ちをいつも考え、子供に寄り添うこと。つまり、子供を力で押さえつけるのでなく、子供一人一人をしっかり観察して、その一人一人の気持ちを受け止めてあげる「誠実さ」を教師がもつこと。(このような教師を「子供をケアする教師」と呼んでいます)
B)教師が教えるのでなく、子供達が自分で調べて、体験して、考えて、気づき、報告したり発表したりできるように、教師は機会を与えたりヒントを出したり手助けをしてあげたりすること。教師の考えている答えだけが必ずしも正しいわけではないことを理解し、子供同士が学び合うことによって、子供達が自然に学ぶ機会を提供すること。つまり、教師の介入(説明・指示・要約等)は最小限にして、子供達の可能性を信じて子供達の自主性にゆだねること。(このような授業を「学び合いの授業」と呼んでます)
A)は先生の従来の「子供観」(子供は、大人がしつけ、知識を教え込まないといけない、つまり「大人が子供より上だ」という意識)を180度ひっくり返すことを求めており、B)は先生の従来の「授業観」(知識や正しい答えは先生が知っているので、それを教え込もうとする授業)をやはり180度ひっくり返すことを求めています。
この2つの変革をベトナムの学校にもたらすことはかなり大変な試みです。私達も3年たってもまだまだ成功しているとはいいがたく、B)の導入以前にA)ができていない教師がほとんどですので、まずはA)を先生の中に根付かせたいと考え、木の物差しで机をたたいて子供達を脅かして黙らせることが日常化している先生達と日々格闘しております。
そんな中でも、何人かの先生が私達の研修後、自分達が変わらないといけないと気づいてくれ、研修で習ったことを自分達でまず実践してみようと、自分のクラスで試みをはじめてくれつつあるのが、現在の希望の種といえます(まだまだ変わりたいという気持ちだけで、実際には授業は何も変わっていないことも多いのですが・・・)。
このような変わりたいと考え、変わろうと努力している教師達をサポートするために、研修対象校135校の中からパイロット校を5校選定し、このパイロット校5校では研修後、毎週1回、授業研究会を開催してもらっています。5校しか選べなかったのは、支援するこちら側のマンパワーの制約によるものですが、このパイロット校5校での授業研究会にはなるべく近隣の学校の先生にも来てもらうようにして、少しでも多くの先生をカバーしたいと考えています。
授業研究会では、先生に授業を公開してもらいます。先生には、教科書に縛られないで自分なりに工夫して授業を行ってもらい(つまり、子供達に考えさせる授業、多様な答えがありうる授業を工夫してもらっています)、また授業観察をしている他の教師達には子供の表情を中心に観察してもらっています。子供がどんな気持ちで授業を聞いているのか(あるいは聞いていないのか)を子供の表情から読み取ってもらおうとしています。そして、授業後の検討会では、一人一人の子供がどう学んだのか(あるいはどう学ばなかったのか)、先生達がみとった子供の学びのストーリーをそれぞれ発表してもらうようにしています。まずは先生達に子供をしっかり観察してもらい、子供達一人一人の気持ちをつかむ力を身につけてほしいと考えているからです。また、このような授業研究会を通して、教師達の中に、同僚から学び合う文化、同僚と助け合う文化が育ってくれればと期待しています。
このプロジェクトは来年の8月には3年間のプロジェクト期間が終わり、終了の予定ですが、上述しましたように、ベトナムの厚い文化の壁にはばまれて、なかなか思うようには進展しておりません。少しでも多くの先生がよい授業をできるようになってくれればとプロジェクトの専門家は毎週5つのパイロット校を回っていますが、今週一歩進んだかと思って喜んでいたら、翌週には2歩下がっていたりして、本当にいつになったらベトナムの学校文化が変わっていくのだろうと絶望的な気持ちになることも多いのですが、それでも「千里の道も一歩から」と自分で自分に言い聞かせながら、毎日元気を奮い起こしながら仕事に向かっているというのが現状です。まだまだ力が足りない未熟者の私達ですが、よろしければ皆様からも応援していただけると幸いです。

これまでの教育協力ではこのような教材を供与することが多く、教師や学校の文化までは踏み込んでこなかった

研修でキャベツの観察をする小学校1年生の授業のデモンストレーションをする専門家

子供と同じ目線にたって実験を指導する、プロジェクトのカウンターパート(地方行政官)


子供達が考えることを楽しみ、自分で発見したことを喜ぶ表情をどの授業でも見られるようにしたい
シエラレオネ子供・青年支援調査の短い紹介文
前回、シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査のホームページを紹介しましたが、職場のRegional Trendという雑誌にも簡単な紹介文を書きましたので、ホームページを読むのはかったるい、面倒だという人向けに短縮版を以下に掲載しておきます。詳しく知りたい方や、現場の写真に関心がある方はぜひ上記のホームページをご覧になってくださいね。
IDCJ Reginal Trend誌No. 6(2006年12月発行) - IDCJ Hot Line
プロジェクト紹介「シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査」
シエラレオネと聞いてもどこにある国か、わかる人は少ないでしょう。私もシエラレオネの仕事に関わるまではそうでした。シエラレオネは西アフリカの大西洋に面している国で、北海道くらいの面積に約500万人の人が暮らしています。国名は初めてシエラレオネを訪れたポルトガル人航海士が、山からライオンの声が聞こえてきたと誤解してつけたといわれており(シエラレオネにはライオンはいません)、ポルトガル語で「ライオン山」という意味です。もともとイギリスの植民地で、首都は18世紀末にイギリスの解放奴隷が戻ってきて定着した町ですので、フリータウン(自由の町)と名付けられています。英語が公用語で、首都では黒人と白人の混血のクレオール人が多く、クレオール語(かなり英語の語彙が多い)が共通語として使われています。
シエラレオネでは1991年から2002年まで11年間、国内のダイヤモンド鉱山の利権を巡って内戦が起こり、多くの子供が反乱軍に誘拐されて少年兵・少女兵として従軍させられ、1万人以上の民間人が手足を切断されたことで知られています。現在のシエラレオネは治安も思ったほど悪くなく、人々は必死で戦争の悪夢を忘れて平和を築いていこうとしているようです。しかし、戦争の傷跡は深く、首都でも電気は週2時間程度しか配電されず(したがって私達は自家発電機で電気をおこしています)、多くの建物が戦闘機による爆撃で破壊されたままです。小学校も校舎がなく、木に黒板を打ち付けて授業を行っている青空学校がまだまだたくさんあります。
私達の調査は、2005年9月から3年間の予定で、シエラレオネのカンビア県で、30の小学校と3つの中学校を対象に、学校を通したコミュニティ開発に取り組んでいます。シエラレオネは西アフリカ最古の大学がある国で、人々はとても教育熱心です。学校も教育省が建設した学校以外に、上述の青空学校のように、地域の住民達が自分達で設立した学校が多くあり、教師も村の若者がボランティアで教えています。このように住民達が熱心に取り組んでいる学校を核にして、村おこしを図っていこうというのが本調査の趣旨で、各学校に「教育とコミュニティ開発の委員会」を設立してもらい、教員や生徒の親や村の有力者だけでなく、地域の青年グループや女性グループにも参加してもらって、学校のために自分達ができること、村のために自分達ができることを自分達で考えてもらい、それを支援しております。
内戦で長年苦しんできたシエラレオネには、多くの緊急援助がこれまで注がれてきており、政府や住民達もただで物をもらうことにすっかり慣れてしまい、自分で努力をしようとしなくなってしまう傾向が見られ、残念なことに、多くの緊急援助がドナーが去ったとたんに雲散霧消してしまっています。現在シエラレオネでは、難民や帰還民の支援を行ってきた多くの緊急援助機関が撤退を始めており、シエラレオネの人達はドナーに頼らずに自分達で村の復興・開発に取り組んでいくことが求められています。
したがって、本調査では、シエラレオネが長期的に自分達の力で持続的に発展していけるようになることを目標に、地域の住民組織の能力作りに重点的に取り組んでいます。具体的には、各学校に「教育とコミュニティ開発の委員会」を設立してもらい、必要な研修を行い、自分達がやりたい活動を計画してもらい、その活動の実施を支援し、実施後に反省し、次の計画作りにフィードバックするという、いわゆるPlan-Do-Seeのサイクルを繰り返してもらうことによって、住民組織の能力育成を図ろうとしています。各住民組織への支援は、能力に応じて小さな規模からスタートして、徐々に大きくしていこうと考えております。
各学校の「教育とコミュニティ開発の委員会」は2006年4月から9月まで、ほとんど自分達だけで実施できる小規模な活動(コミュニティ菜園や学校給食プログラム用の台所・トイレ・井戸整備等)を実施してきました。その経験から実施能力が高いと判断された組織は、やや規模の大きな活動(校舎改善、所得向上活動等)に現在取り組もうとしております。まだまだどの住民組織も経験不足で、活動の実施もスムーズには行かず、よちよち歩きの状態ですが、彼らのやる気を大切にしながら支援を続けていければと考えております。

シエラレオネの青空教室の子供達:校舎はなくても明るい子供達
IDCJ Reginal Trend誌No. 6(2006年12月発行) - IDCJ Hot Line
プロジェクト紹介「シエラレオネ国カンビア県子供・青年支援調査」
シエラレオネと聞いてもどこにある国か、わかる人は少ないでしょう。私もシエラレオネの仕事に関わるまではそうでした。シエラレオネは西アフリカの大西洋に面している国で、北海道くらいの面積に約500万人の人が暮らしています。国名は初めてシエラレオネを訪れたポルトガル人航海士が、山からライオンの声が聞こえてきたと誤解してつけたといわれており(シエラレオネにはライオンはいません)、ポルトガル語で「ライオン山」という意味です。もともとイギリスの植民地で、首都は18世紀末にイギリスの解放奴隷が戻ってきて定着した町ですので、フリータウン(自由の町)と名付けられています。英語が公用語で、首都では黒人と白人の混血のクレオール人が多く、クレオール語(かなり英語の語彙が多い)が共通語として使われています。
シエラレオネでは1991年から2002年まで11年間、国内のダイヤモンド鉱山の利権を巡って内戦が起こり、多くの子供が反乱軍に誘拐されて少年兵・少女兵として従軍させられ、1万人以上の民間人が手足を切断されたことで知られています。現在のシエラレオネは治安も思ったほど悪くなく、人々は必死で戦争の悪夢を忘れて平和を築いていこうとしているようです。しかし、戦争の傷跡は深く、首都でも電気は週2時間程度しか配電されず(したがって私達は自家発電機で電気をおこしています)、多くの建物が戦闘機による爆撃で破壊されたままです。小学校も校舎がなく、木に黒板を打ち付けて授業を行っている青空学校がまだまだたくさんあります。
私達の調査は、2005年9月から3年間の予定で、シエラレオネのカンビア県で、30の小学校と3つの中学校を対象に、学校を通したコミュニティ開発に取り組んでいます。シエラレオネは西アフリカ最古の大学がある国で、人々はとても教育熱心です。学校も教育省が建設した学校以外に、上述の青空学校のように、地域の住民達が自分達で設立した学校が多くあり、教師も村の若者がボランティアで教えています。このように住民達が熱心に取り組んでいる学校を核にして、村おこしを図っていこうというのが本調査の趣旨で、各学校に「教育とコミュニティ開発の委員会」を設立してもらい、教員や生徒の親や村の有力者だけでなく、地域の青年グループや女性グループにも参加してもらって、学校のために自分達ができること、村のために自分達ができることを自分達で考えてもらい、それを支援しております。
内戦で長年苦しんできたシエラレオネには、多くの緊急援助がこれまで注がれてきており、政府や住民達もただで物をもらうことにすっかり慣れてしまい、自分で努力をしようとしなくなってしまう傾向が見られ、残念なことに、多くの緊急援助がドナーが去ったとたんに雲散霧消してしまっています。現在シエラレオネでは、難民や帰還民の支援を行ってきた多くの緊急援助機関が撤退を始めており、シエラレオネの人達はドナーに頼らずに自分達で村の復興・開発に取り組んでいくことが求められています。
したがって、本調査では、シエラレオネが長期的に自分達の力で持続的に発展していけるようになることを目標に、地域の住民組織の能力作りに重点的に取り組んでいます。具体的には、各学校に「教育とコミュニティ開発の委員会」を設立してもらい、必要な研修を行い、自分達がやりたい活動を計画してもらい、その活動の実施を支援し、実施後に反省し、次の計画作りにフィードバックするという、いわゆるPlan-Do-Seeのサイクルを繰り返してもらうことによって、住民組織の能力育成を図ろうとしています。各住民組織への支援は、能力に応じて小さな規模からスタートして、徐々に大きくしていこうと考えております。
各学校の「教育とコミュニティ開発の委員会」は2006年4月から9月まで、ほとんど自分達だけで実施できる小規模な活動(コミュニティ菜園や学校給食プログラム用の台所・トイレ・井戸整備等)を実施してきました。その経験から実施能力が高いと判断された組織は、やや規模の大きな活動(校舎改善、所得向上活動等)に現在取り組もうとしております。まだまだどの住民組織も経験不足で、活動の実施もスムーズには行かず、よちよち歩きの状態ですが、彼らのやる気を大切にしながら支援を続けていければと考えております。

シエラレオネの青空教室の子供達:校舎はなくても明るい子供達
シエラレオネ子供・青年支援調査のHPが公開されました
すっかり更新を怠けているこのブログですが、私が昨年から
ずっと関わっている西アフリカのシエラレオネ国カンビア県
子供・青年支援調査のホームページ(日本語版)が国際協力
機構(JICA)の技術協力プロジェクトの紹介サイトの中で
公開されましたので、以下にご紹介しておきます。
シエラレオネ国 カンビア県 子供・青年支援調査
http://project.jica.go.jp/sierraleone/0605498/
シエラレオネの学校の写真もたくさん載せておきましたので、
関心のある多くの方々に見ていただければ幸いです。
なお、このホームページの作成にあたっては、内容面では
メンバーの高杉さんに、ホームページ作成の技術面では
JICA技術協力プロジェクト・ホームページ作成支援班の
皆様に大変お世話になりました。この場を借りてお礼を
申し上げさせていただきます。
(じつは、JICA技術協力プロジェクト・ホームページ作成
支援班は、その名の通り、JICAの技術協力プロジェクトの
ホームページ作成を支援されるのが本来の役割で、これまで
本案件のような開発調査のホームページ作成の支援はされて
こなかったのですが、今回はJICAガーナ事務所からの強い
依頼もあり、引き受けていただけました。その意味で、
JICAガーナ事務所の担当者の皆様にも本当に感謝しております)
この調査は2008年7月まで続きますので、これからもおりに
ふれ、内容をアップデートしていきたいと考えておりますので、
よろしければごひいき(?)にしていただければ幸いです。
ずっと関わっている西アフリカのシエラレオネ国カンビア県
子供・青年支援調査のホームページ(日本語版)が国際協力
機構(JICA)の技術協力プロジェクトの紹介サイトの中で
公開されましたので、以下にご紹介しておきます。
シエラレオネ国 カンビア県 子供・青年支援調査
http://project.jica.go.jp/sierraleone/0605498/
シエラレオネの学校の写真もたくさん載せておきましたので、
関心のある多くの方々に見ていただければ幸いです。
なお、このホームページの作成にあたっては、内容面では
メンバーの高杉さんに、ホームページ作成の技術面では
JICA技術協力プロジェクト・ホームページ作成支援班の
皆様に大変お世話になりました。この場を借りてお礼を
申し上げさせていただきます。
(じつは、JICA技術協力プロジェクト・ホームページ作成
支援班は、その名の通り、JICAの技術協力プロジェクトの
ホームページ作成を支援されるのが本来の役割で、これまで
本案件のような開発調査のホームページ作成の支援はされて
こなかったのですが、今回はJICAガーナ事務所からの強い
依頼もあり、引き受けていただけました。その意味で、
JICAガーナ事務所の担当者の皆様にも本当に感謝しております)
この調査は2008年7月まで続きますので、これからもおりに
ふれ、内容をアップデートしていきたいと考えておりますので、
よろしければごひいき(?)にしていただければ幸いです。
東京都稲城市若葉台へ引越し
いよいよこの週末に、1990年から暮らしてきた埼玉県上福岡市を離れ、東京都稲城市若葉台の新居に引っ越します。15年もの間、奥様の実家に居候させていただいてきましたが、ついに25年ローンを組んで自宅を建てることになったわけです。
若葉台は多摩ニュータウンの入り口の町で、駅前にはまだ飲み屋もパチンコ屋もない新興住宅地で、これからいろいろなお店や施設ができてくる発展途上の町といえます。
ミサワホームの建売住宅で建てましたが、フリープランでしたので、1階に8帖の書庫を作ってもらい(図書館用書棚を販売しているキハラからコンパックルという移動式書棚を入れました)、2階に風呂を持ってきました。斜面の上に建っている家ですので、2階からの展望がよく、風呂に入りながら夜は星空を、昼は遠くの雑木山を見ることができそうです。風呂には最近はやっているらしいミスト・シャワーも入れてみましたが、さて使い心地はどうでしょうか。

通りから見た新居:車を持っていないのになぜか車庫が2台分ある

1階の書庫です(キハラの移動式書棚コンパックルが並んでいます)

2階の風呂です(遠くに雑木山が見えます)
若葉台は多摩ニュータウンの入り口の町で、駅前にはまだ飲み屋もパチンコ屋もない新興住宅地で、これからいろいろなお店や施設ができてくる発展途上の町といえます。
ミサワホームの建売住宅で建てましたが、フリープランでしたので、1階に8帖の書庫を作ってもらい(図書館用書棚を販売しているキハラからコンパックルという移動式書棚を入れました)、2階に風呂を持ってきました。斜面の上に建っている家ですので、2階からの展望がよく、風呂に入りながら夜は星空を、昼は遠くの雑木山を見ることができそうです。風呂には最近はやっているらしいミスト・シャワーも入れてみましたが、さて使い心地はどうでしょうか。

通りから見た新居:車を持っていないのになぜか車庫が2台分ある

1階の書庫です(キハラの移動式書棚コンパックルが並んでいます)

2階の風呂です(遠くに雑木山が見えます)
マラリア入院日記
●マラリア発症と治療の経過
私は、2005年3月6日(日)〜30日(水)にかけて、西アフリカのシエラレオネに出張しましたが(実際にシエラレオネにいたのは、3月7日〜27日の3週間です)、帰国して約1週間がたった4月7日に熱帯熱マラリアを発症しました。その経緯を以下に簡単にまとめておきます。
4月5日(火)
少し体がだるく感じられたので(倦怠感)、疲れがたまっているのかと思い、午後6時には仕事を切り上げ、会社から帰宅し、食欲はなかったので、夕食はとらずに、午後8時半には早めに休む。この時点では、熱はまだあまり感じず。
4月6日(水)
朝7時の体温38.6度。近所の内科医に行き、マラリアの可能性もあると説明したが、医師からは「おそらく風邪でしょう」と言われ、解熱用の抗生物質フロモックスと鎮痛・解熱剤ブルフェンをもらって帰ってくる(インフルエンザの検査もしたが、陰性だった)。会社は病欠。薬のおかげで、夜6時には熱は36.3に下がっている。朝、昼は何も食べられなかったが、夜は少し食欲がもどってきたので、軽く食べる。
4月7日(木)(入院日)
早朝3時ー4時頃に全身が悪寒におそわれる。朝6時には体温38.6度だったが、まだまだ上がりそうな雰囲気。体の中で次から次へと熱源が誕生し、熱がつきあげるように波状攻撃を仕掛けてくる感じで、体温が急上昇する。このこれまで経験したことがないような異常な熱の上がり方は、噂に聞くマラリアに違いないと考え、マラリア検査のできる病院に行くこととする(参考資料1参照)。都立駒込病院と国立国際医療センターに電話したところ、前者からは9時以降いつでも来てくださいと言われ、後者からは担当者が9時に来るまでわかりませんと言われたので、都立駒込病院 感染症科(〒113-0021 東京都文京区本駒込3-18-22、TEL. 03-3823-2101)に行くこととし、119番で救急車をお願いする。
埼玉県上福岡市の自宅から、朝のラッシュ時の川越街道をサイレンを鳴らしながら対向車線をどんどん走ってもらって、50分かけて午前9時40分に都立駒込病院に到着(聞くところによると、東京では救急車は管轄区域内の病院にしか配送してもらえないそうですので、埼玉県民でとてもラッキーだったと言えます)。救急車の中では、体温39.7度、最大血圧186だった(平常時の血圧は60-110程度)。意識はあるが、熱で頭はぼ〜とし、体がからからにひからびていることを感じる。
都立駒沢病院で血液検査を受けると40分後くらいに、「熱帯熱マラリア」であることが判明、即入院が決まる。血液中の赤血球の1%にマラリア原虫が確認されたと言うことで、重症(赤血球の4ー5%にマラリア原虫)には至っていないものの、毎日血液検査をして経過を観察することとなる。
なお、マラリアだけでなく、他の熱帯感染症(腸チフス、B型肝炎、熱帯性出血熱等)が疑われたため、そのための検査(レントゲン、検便、心電図、触診等)を受け、検査結果が出るまで隔離病棟の個室に隔離されることとなる。
マラリアの治療は、「メフロキン」(Mefloquine、商品名:MephaquinあるいはLariam、1錠250mg 900円程度)と点滴(体内の水分補給と食欲がない間の栄養補給)。メフロキンはまず2錠を飲み、6時間後にさらに2錠を飲む。メフロキンを飲んだのはこの日だけで、この4錠だけで効果は1ヶ月ほど持続するという。なお、メフロキンには解熱作用はないため、最初のメフロキンを飲んだ2時間ほど後に解熱剤1錠も飲む。体温は夜6時には37.5度まで下がる。
4月8日(金)(入院2日目)
体温:朝6時37.6度、昼12時37.5度、夜8時37.2度。朝と昼に血液検査のため採血。この日のお昼から食事を取ってよいと言われ、病院の食事(一般食)が配給されるようになる。食事はまだフルには食べられないが、食べなくてはという意識だけで食べる。食事を食べられるようになったため、点滴はお昼で終了。
4月9日(土)(入院3日目)
体温:朝6時36度、昼12時38度、夜8時37.6度。朝と昼に血液検査のため採血。午前中は熱がないが、偏頭痛がし、午後になって熱がでる。血液中の血小板が減少していると言われ、歯茎等から出血すると血がかたまりにくい状態なので、やさしく歯を磨くようにと注意される。食事は残さず食べられるようになる。頭もすっきりしてきて、気分的にも余裕が出てきたので、暇つぶしに本を読み始める(退院までの3日間で文庫本4冊を読み終えた)。
4月10日(日)(入院4日目)
体温:朝6時36度、昼12時37.2度、夜7時37.5度。日曜日だからか血液検査なし。昨日と同じく、午前中は熱がないが、午後になって熱がでる。午前中の偏頭痛は昨日より少しましになる。この日の夜、入院後はじめて寝汗をかく。
4月11日(月)(入院5日目)
体温:朝6時36.3度、昼12時36度、夜8時36.8度。朝血液検査のため採血。はじめて一日中体温が36度台で安定する。お昼頃、ずっと待っていたマラリア以外の熱帯感染症の検査の結果が出る。陰性。これではじめて病室外に行ってもよいという許可が出、隔離状態が解除される。入院後はじめて病室外に出て、あちこち病院内を探検する。病室内のトイレで、シャワーも浴びる。夕方判明した血液検査の結果も良好なため、明日退院してよいとの許可が出る。
4月12日(火)(入院6日目)
体温:朝7時36.5度。午前11時に晴れて退院(天気は曇りで、外は冷たい風が吹いていましたが)。医師からは発症後1ヶ月程度は再発の危険性があるので、まだ無理はせず十分に健康に注意するようにと言われる。念のため、1週間後に再検査に来るようにと言われる。5泊6日分の入院費は、健康保険で本人3割負担で、47,780円だった。
●4種類のマラリアとその違い
マラリアには、熱帯熱マラリア(Tropical malaria、Falciparum malaria)、四日熱マラリア(Quartan malaria、Malariae malaria)、三日熱マラリア(Tertian malaria、Vivax malaria)、卵形マラリア(Ovale malaria、Ovale malaria)の4種類がありますが、マラリア原虫をもつハマダラカに吸血され、人の体内にマラリア原虫が侵入してから発症するまでの潜伏期は、熱帯熱マラリアで12日前後、四日熱マラリアで30日前後、三日熱マラリアと卵形マラリアは14日前後といわれています。つまり、マラリア流行地からの帰国後1ヶ月以内に発症することがほとんどです。
私が都立駒込病院に担ぎ込まれた時の状況、すなわち最初に1ー2時間の悪寒・体の震えがあり、その後悪寒・震えは消えるが、体温が急上昇した状態が4ー5時間続くという状況は、マラリアによる「熱発作」と呼ばれています。この熱発作の間隔は、四日熱マラリアで72時間ごと、三日熱マラリアと卵形マラリアで48時間ごとに起こりますが、熱帯熱マラリアの場合は高熱が持続し平熱まで下がることはほとんどありません。マラリアの治療は発症から72時間以内にすることが大切といわれており、治療が遅れると4ー5日後に重症化することがあり、最悪の場合、脳の血管壁にマラリア原虫に感染した赤血球がびっしりと付着して血流が悪くなるという「脳マラリア」となり、命に関わりかねない状態となります。
熱帯熱マラリアと四日熱マラリアは治療が成功し熱がひけば原虫は完全にいなくなると言われていますが、三日熱マラリアと卵形マラリアの原虫は、肝細胞内で直ちに分裂を開始することなくしばらく潜んでしまう「休眠原虫」が形成されることがあり、これが後になって分裂を開始して血中に放出されるとマラリアが再発するという「慢性マラリア」化することがありますので、治療にも時間がかかります。
●ハマダラカとマラリア原虫
マラリア原虫はハマダラカ(Anopheles)によって媒介されますが、ハマダラカは世界中に400種近く存在し、うち50種以上がマラリアを媒介するそうです(ハマダラカの写真については参考資料2参照)。マラリアは、世界100カ国以上で毎年3〜5億人にマラリア原虫を感染させ、毎年150〜270万人を死亡させており(その大部分は5歳未満の乳幼児)、日本でも毎年海外帰国者100ー150名が発症しているそうです。WHOによると、先進国の人間がマラリア流行地に予防薬を服用せずに行った場合、1ヶ月間にマラリアに感染する確率は3%程度だそうですので、97%の確率で感染しないと言えますが、何度もマラリア流行地に行っていると当然感染する確率は高くなります。また、先進国の人間がアフリカに2年住むと、約30%の人がマラリアになったという統計もあるそうです。
ハマダラカは湿地帯(日当たりがよい、浅い水の所、水のきれいな所)に生息しているため、熱帯多雨地帯とその周辺の草原、農作地帯がマラリア発生地と言われております。ハマダラカは、羽に白黒の班紋を持つことと、物にとまるとき(人体への吸血の際)、イエカ・ヤブカといった他の蚊と異なり、尻を上げて斜めに釘を刺したような姿勢に見えることが特徴です。一般に1500m以上の高原地帯や山岳地帯ではハマダラカの発生はないとされていますが、1800mの高地でマラリアが流行したとの記録もあり、油断はできません。
マラリア原虫は、ハマダラカの唾液腺に集まっており、メスのハマダラカが産卵のために吸血を行う際に唾液とともに人の体内に侵入します。人の体内に入ったマラリア原虫はいったんは肝臓に潜みますが、成長すると肝細胞を破壊して血液中に遊離され、赤血球の中に入ります。赤血球内で成長・分裂を繰り返し、8個〜32個に分裂した段階で赤血球膜を破壊して遊離し、新たな赤血球に侵入して、また同じサイクル(無性生殖のサイクル)を繰り返します。この赤血球外に放出される際に発熱が起こります。
人間の体内には約6リットルの血液があり、血液1ミリリットル中に、男子で450万〜500万個、女子で400万〜450万個の赤血球がありますので、赤血球の1%にマラリア原虫がいるという状態とは、450万個/ml x 6000 ml x 0.01 = 2億7000万匹のマラリア原虫が体内にいるという計算になります。これだけの数のマラリア原虫が分裂して赤血球から飛び出すたびに発熱が起こるわけですから、マラリアによる熱発作中、いかに大量の発熱が体の中から襲ってくるかがわかります。
マラリアの熱の出方の特徴は、最初は穏やかな熱(ステップ1)なのでいつもの風邪かなと軽く考えていると、そのうち悪寒が走り(ステップ2)、急激な体温上昇が襲って来る(ステップ3)というものです。
●マラリアの治療薬・予防薬
シエラレオネのマラリアは90%以上が熱帯熱マラリアといわれていますが、ほとんどが「クロロキン」(Chloroquine。商品名:Aralen、Avlochlor、 Nivaquine、Resochin等。1錠1円程度と安いのが特徴)耐性マラリアですので、予防・治療薬としては「メフロキン」が一番ポピュラーです。メフロキンは、効果が長く持続する(1錠飲めば約1週間効果がある)強い薬ですが、副作用が強いことでも知られています。メフロキンの副作用としては、胃腸障害(ひどいときは嘔吐も)、平衡感覚障害(ふらふらして、歩行困難な場合も)、悪夢や幻覚(アメリカのPeace Corpsの統計では、メフロキン服用者の3割が悪夢を見たそうです。躁鬱病患者が服用すると躁鬱が激しくなるとも言われています)等があげられていますが、私は幸いなことに、特に強い副作用を感じることはありませんでした。私の場合は、重症マラリアではありませんでしたので、メフロキン錠剤を経口投与されましたが、重症患者の場合は直接注射用キニーネ等を血液中に投与することも行うそうです。
メフロキンは赤血球を包み込み、マラリア原虫が赤血球内に入り込めないようにする作用を持っています。赤血球内に入り込めなかったマラリア原虫は死滅します。しかし、すでに赤血球内に入っているマラリア原虫に対しては無力ですので、メフロキンを服用しても、服用前に赤血球内に入ってしまったマラリア原虫がすべて外に出てくるまで、すなわち2ー3日は発熱が続きます。
なお、WHOによると、シエラレオネではメフロキン耐性マラリアが1%ほど報告されており、メフロキンが万一きかなかった場合には、中国のマラリア薬(Artesunate。漢方薬の黄花蒿(キク科ヨモギ類のクソニンジン)から抽出されたアルテミシン水溶性誘導体。中国・桂林製薬やタイ・Atlantic Pharmaceuticalsの商品やスイスMepha社のPlasmotrim Lactab、Plasmotrim Rectocaps等がある)やフランスのマラリア薬(Halofantrine、商品名:Halfan)を試してみますと言われました。現在日本国内で認可・販売されているマラリア薬は、経口キニーネ、ファンシダール、メフロキンの3種類だけだそうで、上記の薬はともに厚生省未認可で、研究・実験用に日本に輸入されているだけですので、健康保険がきかず、自己リスクで投薬を受ける旨の誓約書にサインしてもらいますと言われました。
なお、メフロキンはマラリアの予防薬としても使われますが、その場合は、マラリア流行地域の到着1週間前より服用を開始し、1週間間隔で毎回1錠を服用し、マラリア流行地を離れた後も4週間服用を続けることになっています。日本でメフロキンを入手できるところとしては以下のような所があります(メフロキンを予防薬として購入するときは、健康保険が適用されません)。
(1)東京慈恵会医科大学 熱帯医学研究部
〒105-0003 東京都港区西新橋3-25-8
TEL. 03-3433-1111
(2)海外勤務健康管理センター(JOHAC)健康管理部 予防接種外来
〒222-0036 神奈川県横浜市港北区小机町3211
TEL: 045-474-6003)
(3)赤玉薬局
〒141-0033 東京都品川区西品川2-23-18
TEL: 03-3491-1256、FAX: 03-3491-1261
通常、海外旅行前にメフロキンを入手するには、マラリア外来のある医療機関(たとえば上記の(1)や(2))に必ず旅行者本人が行き、外来で診察を受けて医師の処方箋をもらって購入する必要がありますが、(3)の赤玉薬局では、赤玉薬局に行く必要はなく、玉薬局からFAXで送られてくる「抗マラリア剤申込書」にある問診表(渡航予定地(国、都市名)、渡航期間、体重、肝臓・腎臓の既往症、アレルギーの有無、抗マラリア剤服用の経験、現在治療中の病気と薬)に答えを書き込んでFAXすれば、その記載内容から医師が判断して処方してくれ、薬代を銀行振り込みしますと(1錠あたり1,300円と送料400円)、宅急便で送ってくれます。なお、メフロキンを飲んだ場合は副作用がひどくなるので、アルコールを飲んではいけないと注意をされました。
また、赤玉薬局以外では、新宿ビルクリニック(TEL: 03-3340-0245)でドキシサイクリン(Doxycycline)というマラリアの予防薬を処方してくれます。ドキシサイクリンも、クロロキン耐性マラリアが大半を占める地域で使用されている薬だそうです。
もちろん最大のマラリア予防法は、夜、蚊に刺されないことですので、蚊取り線香や蚊帳を利用し、夜間はなるべく長袖長ズボンを着用して肌を露出しないようにすることが有効だといわれています。
なお、私は試したことがありませんが、蚊帳に関しては、住友化学が開発した「オリセットネット」という防虫蚊帳もあるそうです。住友化学がタンザニアはじめアフリカ各国の企業に無償で技術提供を行ってライセンス生産を行い、UNICEF/WHOがアフリカでマラリア対策用に配布している、3年間防虫効果が持続するという防虫蚊帳です。ほ乳類に毒性の低いピレスロイド系の薬剤ペルメトリンを練り込んだ樹脂で編まれており、従来の蚊帳よりも網の目が大きいため、蚊は入らないが風通しがよいのが特徴だそうです。3つのサイズがあり、8,000〜11,500円で販売されています。入手方法は以下のホームページをご参照くださ
い。
http://malaria.himeji-du.ac.jp/IPublic/malaria-net-j/general/olyset-net.html
以上、私自身の健康管理の甘さから、今回マラリアを発症し、多くの皆様にご心配とご迷惑をおかけし、本当に申し訳ございませんでした。私のケースをもって他山の石としていただければと思い、マラリア発病と治療の様子や医師から聞いたマラリア情報やインターネットで調べたマラリア情報をまとめておきました。少しでも皆様の今後のご参考にしていただければ幸いです。
(参考資料)
1。 マラリアの検査・治療ができる日本の病院リスト
http://www.forth.go.jp/keneki/kanku/disease/malaria/malsodan.html
http://malaria.himeji-du.ac.jp/IPublic/malaria-net-j/hospitals.html
2. ハマダラカの写真
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/INSECT/10/10-1-2p.jpg
http://www.tm.nagasaki-u.ac.jp/medical/Mosquito%20Photo/An%20minimus.jpg
(コガタハマダラカ)
http://www.tm.nagasaki-u.ac.jp/medical/Mosquito%20Photo/An%20saperoi.jpg
(オオハマハマダラカ)
http://www.tm.nagasaki-u.ac.jp/medical/mosquito_around_the_world.html
(ガンビエハマダラカ)
私は、2005年3月6日(日)〜30日(水)にかけて、西アフリカのシエラレオネに出張しましたが(実際にシエラレオネにいたのは、3月7日〜27日の3週間です)、帰国して約1週間がたった4月7日に熱帯熱マラリアを発症しました。その経緯を以下に簡単にまとめておきます。
4月5日(火)
少し体がだるく感じられたので(倦怠感)、疲れがたまっているのかと思い、午後6時には仕事を切り上げ、会社から帰宅し、食欲はなかったので、夕食はとらずに、午後8時半には早めに休む。この時点では、熱はまだあまり感じず。
4月6日(水)
朝7時の体温38.6度。近所の内科医に行き、マラリアの可能性もあると説明したが、医師からは「おそらく風邪でしょう」と言われ、解熱用の抗生物質フロモックスと鎮痛・解熱剤ブルフェンをもらって帰ってくる(インフルエンザの検査もしたが、陰性だった)。会社は病欠。薬のおかげで、夜6時には熱は36.3に下がっている。朝、昼は何も食べられなかったが、夜は少し食欲がもどってきたので、軽く食べる。
4月7日(木)(入院日)
早朝3時ー4時頃に全身が悪寒におそわれる。朝6時には体温38.6度だったが、まだまだ上がりそうな雰囲気。体の中で次から次へと熱源が誕生し、熱がつきあげるように波状攻撃を仕掛けてくる感じで、体温が急上昇する。このこれまで経験したことがないような異常な熱の上がり方は、噂に聞くマラリアに違いないと考え、マラリア検査のできる病院に行くこととする(参考資料1参照)。都立駒込病院と国立国際医療センターに電話したところ、前者からは9時以降いつでも来てくださいと言われ、後者からは担当者が9時に来るまでわかりませんと言われたので、都立駒込病院 感染症科(〒113-0021 東京都文京区本駒込3-18-22、TEL. 03-3823-2101)に行くこととし、119番で救急車をお願いする。
埼玉県上福岡市の自宅から、朝のラッシュ時の川越街道をサイレンを鳴らしながら対向車線をどんどん走ってもらって、50分かけて午前9時40分に都立駒込病院に到着(聞くところによると、東京では救急車は管轄区域内の病院にしか配送してもらえないそうですので、埼玉県民でとてもラッキーだったと言えます)。救急車の中では、体温39.7度、最大血圧186だった(平常時の血圧は60-110程度)。意識はあるが、熱で頭はぼ〜とし、体がからからにひからびていることを感じる。
都立駒沢病院で血液検査を受けると40分後くらいに、「熱帯熱マラリア」であることが判明、即入院が決まる。血液中の赤血球の1%にマラリア原虫が確認されたと言うことで、重症(赤血球の4ー5%にマラリア原虫)には至っていないものの、毎日血液検査をして経過を観察することとなる。
なお、マラリアだけでなく、他の熱帯感染症(腸チフス、B型肝炎、熱帯性出血熱等)が疑われたため、そのための検査(レントゲン、検便、心電図、触診等)を受け、検査結果が出るまで隔離病棟の個室に隔離されることとなる。
マラリアの治療は、「メフロキン」(Mefloquine、商品名:MephaquinあるいはLariam、1錠250mg 900円程度)と点滴(体内の水分補給と食欲がない間の栄養補給)。メフロキンはまず2錠を飲み、6時間後にさらに2錠を飲む。メフロキンを飲んだのはこの日だけで、この4錠だけで効果は1ヶ月ほど持続するという。なお、メフロキンには解熱作用はないため、最初のメフロキンを飲んだ2時間ほど後に解熱剤1錠も飲む。体温は夜6時には37.5度まで下がる。
4月8日(金)(入院2日目)
体温:朝6時37.6度、昼12時37.5度、夜8時37.2度。朝と昼に血液検査のため採血。この日のお昼から食事を取ってよいと言われ、病院の食事(一般食)が配給されるようになる。食事はまだフルには食べられないが、食べなくてはという意識だけで食べる。食事を食べられるようになったため、点滴はお昼で終了。
4月9日(土)(入院3日目)
体温:朝6時36度、昼12時38度、夜8時37.6度。朝と昼に血液検査のため採血。午前中は熱がないが、偏頭痛がし、午後になって熱がでる。血液中の血小板が減少していると言われ、歯茎等から出血すると血がかたまりにくい状態なので、やさしく歯を磨くようにと注意される。食事は残さず食べられるようになる。頭もすっきりしてきて、気分的にも余裕が出てきたので、暇つぶしに本を読み始める(退院までの3日間で文庫本4冊を読み終えた)。
4月10日(日)(入院4日目)
体温:朝6時36度、昼12時37.2度、夜7時37.5度。日曜日だからか血液検査なし。昨日と同じく、午前中は熱がないが、午後になって熱がでる。午前中の偏頭痛は昨日より少しましになる。この日の夜、入院後はじめて寝汗をかく。
4月11日(月)(入院5日目)
体温:朝6時36.3度、昼12時36度、夜8時36.8度。朝血液検査のため採血。はじめて一日中体温が36度台で安定する。お昼頃、ずっと待っていたマラリア以外の熱帯感染症の検査の結果が出る。陰性。これではじめて病室外に行ってもよいという許可が出、隔離状態が解除される。入院後はじめて病室外に出て、あちこち病院内を探検する。病室内のトイレで、シャワーも浴びる。夕方判明した血液検査の結果も良好なため、明日退院してよいとの許可が出る。
4月12日(火)(入院6日目)
体温:朝7時36.5度。午前11時に晴れて退院(天気は曇りで、外は冷たい風が吹いていましたが)。医師からは発症後1ヶ月程度は再発の危険性があるので、まだ無理はせず十分に健康に注意するようにと言われる。念のため、1週間後に再検査に来るようにと言われる。5泊6日分の入院費は、健康保険で本人3割負担で、47,780円だった。
●4種類のマラリアとその違い
マラリアには、熱帯熱マラリア(Tropical malaria、Falciparum malaria)、四日熱マラリア(Quartan malaria、Malariae malaria)、三日熱マラリア(Tertian malaria、Vivax malaria)、卵形マラリア(Ovale malaria、Ovale malaria)の4種類がありますが、マラリア原虫をもつハマダラカに吸血され、人の体内にマラリア原虫が侵入してから発症するまでの潜伏期は、熱帯熱マラリアで12日前後、四日熱マラリアで30日前後、三日熱マラリアと卵形マラリアは14日前後といわれています。つまり、マラリア流行地からの帰国後1ヶ月以内に発症することがほとんどです。
私が都立駒込病院に担ぎ込まれた時の状況、すなわち最初に1ー2時間の悪寒・体の震えがあり、その後悪寒・震えは消えるが、体温が急上昇した状態が4ー5時間続くという状況は、マラリアによる「熱発作」と呼ばれています。この熱発作の間隔は、四日熱マラリアで72時間ごと、三日熱マラリアと卵形マラリアで48時間ごとに起こりますが、熱帯熱マラリアの場合は高熱が持続し平熱まで下がることはほとんどありません。マラリアの治療は発症から72時間以内にすることが大切といわれており、治療が遅れると4ー5日後に重症化することがあり、最悪の場合、脳の血管壁にマラリア原虫に感染した赤血球がびっしりと付着して血流が悪くなるという「脳マラリア」となり、命に関わりかねない状態となります。
熱帯熱マラリアと四日熱マラリアは治療が成功し熱がひけば原虫は完全にいなくなると言われていますが、三日熱マラリアと卵形マラリアの原虫は、肝細胞内で直ちに分裂を開始することなくしばらく潜んでしまう「休眠原虫」が形成されることがあり、これが後になって分裂を開始して血中に放出されるとマラリアが再発するという「慢性マラリア」化することがありますので、治療にも時間がかかります。
●ハマダラカとマラリア原虫
マラリア原虫はハマダラカ(Anopheles)によって媒介されますが、ハマダラカは世界中に400種近く存在し、うち50種以上がマラリアを媒介するそうです(ハマダラカの写真については参考資料2参照)。マラリアは、世界100カ国以上で毎年3〜5億人にマラリア原虫を感染させ、毎年150〜270万人を死亡させており(その大部分は5歳未満の乳幼児)、日本でも毎年海外帰国者100ー150名が発症しているそうです。WHOによると、先進国の人間がマラリア流行地に予防薬を服用せずに行った場合、1ヶ月間にマラリアに感染する確率は3%程度だそうですので、97%の確率で感染しないと言えますが、何度もマラリア流行地に行っていると当然感染する確率は高くなります。また、先進国の人間がアフリカに2年住むと、約30%の人がマラリアになったという統計もあるそうです。
ハマダラカは湿地帯(日当たりがよい、浅い水の所、水のきれいな所)に生息しているため、熱帯多雨地帯とその周辺の草原、農作地帯がマラリア発生地と言われております。ハマダラカは、羽に白黒の班紋を持つことと、物にとまるとき(人体への吸血の際)、イエカ・ヤブカといった他の蚊と異なり、尻を上げて斜めに釘を刺したような姿勢に見えることが特徴です。一般に1500m以上の高原地帯や山岳地帯ではハマダラカの発生はないとされていますが、1800mの高地でマラリアが流行したとの記録もあり、油断はできません。
マラリア原虫は、ハマダラカの唾液腺に集まっており、メスのハマダラカが産卵のために吸血を行う際に唾液とともに人の体内に侵入します。人の体内に入ったマラリア原虫はいったんは肝臓に潜みますが、成長すると肝細胞を破壊して血液中に遊離され、赤血球の中に入ります。赤血球内で成長・分裂を繰り返し、8個〜32個に分裂した段階で赤血球膜を破壊して遊離し、新たな赤血球に侵入して、また同じサイクル(無性生殖のサイクル)を繰り返します。この赤血球外に放出される際に発熱が起こります。
人間の体内には約6リットルの血液があり、血液1ミリリットル中に、男子で450万〜500万個、女子で400万〜450万個の赤血球がありますので、赤血球の1%にマラリア原虫がいるという状態とは、450万個/ml x 6000 ml x 0.01 = 2億7000万匹のマラリア原虫が体内にいるという計算になります。これだけの数のマラリア原虫が分裂して赤血球から飛び出すたびに発熱が起こるわけですから、マラリアによる熱発作中、いかに大量の発熱が体の中から襲ってくるかがわかります。
マラリアの熱の出方の特徴は、最初は穏やかな熱(ステップ1)なのでいつもの風邪かなと軽く考えていると、そのうち悪寒が走り(ステップ2)、急激な体温上昇が襲って来る(ステップ3)というものです。
●マラリアの治療薬・予防薬
シエラレオネのマラリアは90%以上が熱帯熱マラリアといわれていますが、ほとんどが「クロロキン」(Chloroquine。商品名:Aralen、Avlochlor、 Nivaquine、Resochin等。1錠1円程度と安いのが特徴)耐性マラリアですので、予防・治療薬としては「メフロキン」が一番ポピュラーです。メフロキンは、効果が長く持続する(1錠飲めば約1週間効果がある)強い薬ですが、副作用が強いことでも知られています。メフロキンの副作用としては、胃腸障害(ひどいときは嘔吐も)、平衡感覚障害(ふらふらして、歩行困難な場合も)、悪夢や幻覚(アメリカのPeace Corpsの統計では、メフロキン服用者の3割が悪夢を見たそうです。躁鬱病患者が服用すると躁鬱が激しくなるとも言われています)等があげられていますが、私は幸いなことに、特に強い副作用を感じることはありませんでした。私の場合は、重症マラリアではありませんでしたので、メフロキン錠剤を経口投与されましたが、重症患者の場合は直接注射用キニーネ等を血液中に投与することも行うそうです。
メフロキンは赤血球を包み込み、マラリア原虫が赤血球内に入り込めないようにする作用を持っています。赤血球内に入り込めなかったマラリア原虫は死滅します。しかし、すでに赤血球内に入っているマラリア原虫に対しては無力ですので、メフロキンを服用しても、服用前に赤血球内に入ってしまったマラリア原虫がすべて外に出てくるまで、すなわち2ー3日は発熱が続きます。
なお、WHOによると、シエラレオネではメフロキン耐性マラリアが1%ほど報告されており、メフロキンが万一きかなかった場合には、中国のマラリア薬(Artesunate。漢方薬の黄花蒿(キク科ヨモギ類のクソニンジン)から抽出されたアルテミシン水溶性誘導体。中国・桂林製薬やタイ・Atlantic Pharmaceuticalsの商品やスイスMepha社のPlasmotrim Lactab、Plasmotrim Rectocaps等がある)やフランスのマラリア薬(Halofantrine、商品名:Halfan)を試してみますと言われました。現在日本国内で認可・販売されているマラリア薬は、経口キニーネ、ファンシダール、メフロキンの3種類だけだそうで、上記の薬はともに厚生省未認可で、研究・実験用に日本に輸入されているだけですので、健康保険がきかず、自己リスクで投薬を受ける旨の誓約書にサインしてもらいますと言われました。
なお、メフロキンはマラリアの予防薬としても使われますが、その場合は、マラリア流行地域の到着1週間前より服用を開始し、1週間間隔で毎回1錠を服用し、マラリア流行地を離れた後も4週間服用を続けることになっています。日本でメフロキンを入手できるところとしては以下のような所があります(メフロキンを予防薬として購入するときは、健康保険が適用されません)。
(1)東京慈恵会医科大学 熱帯医学研究部
〒105-0003 東京都港区西新橋3-25-8
TEL. 03-3433-1111
(2)海外勤務健康管理センター(JOHAC)健康管理部 予防接種外来
〒222-0036 神奈川県横浜市港北区小机町3211
TEL: 045-474-6003)
(3)赤玉薬局
〒141-0033 東京都品川区西品川2-23-18
TEL: 03-3491-1256、FAX: 03-3491-1261
通常、海外旅行前にメフロキンを入手するには、マラリア外来のある医療機関(たとえば上記の(1)や(2))に必ず旅行者本人が行き、外来で診察を受けて医師の処方箋をもらって購入する必要がありますが、(3)の赤玉薬局では、赤玉薬局に行く必要はなく、玉薬局からFAXで送られてくる「抗マラリア剤申込書」にある問診表(渡航予定地(国、都市名)、渡航期間、体重、肝臓・腎臓の既往症、アレルギーの有無、抗マラリア剤服用の経験、現在治療中の病気と薬)に答えを書き込んでFAXすれば、その記載内容から医師が判断して処方してくれ、薬代を銀行振り込みしますと(1錠あたり1,300円と送料400円)、宅急便で送ってくれます。なお、メフロキンを飲んだ場合は副作用がひどくなるので、アルコールを飲んではいけないと注意をされました。
また、赤玉薬局以外では、新宿ビルクリニック(TEL: 03-3340-0245)でドキシサイクリン(Doxycycline)というマラリアの予防薬を処方してくれます。ドキシサイクリンも、クロロキン耐性マラリアが大半を占める地域で使用されている薬だそうです。
もちろん最大のマラリア予防法は、夜、蚊に刺されないことですので、蚊取り線香や蚊帳を利用し、夜間はなるべく長袖長ズボンを着用して肌を露出しないようにすることが有効だといわれています。
なお、私は試したことがありませんが、蚊帳に関しては、住友化学が開発した「オリセットネット」という防虫蚊帳もあるそうです。住友化学がタンザニアはじめアフリカ各国の企業に無償で技術提供を行ってライセンス生産を行い、UNICEF/WHOがアフリカでマラリア対策用に配布している、3年間防虫効果が持続するという防虫蚊帳です。ほ乳類に毒性の低いピレスロイド系の薬剤ペルメトリンを練り込んだ樹脂で編まれており、従来の蚊帳よりも網の目が大きいため、蚊は入らないが風通しがよいのが特徴だそうです。3つのサイズがあり、8,000〜11,500円で販売されています。入手方法は以下のホームページをご参照くださ
い。
http://malaria.himeji-du.ac.jp/IPublic/malaria-net-j/general/olyset-net.html
以上、私自身の健康管理の甘さから、今回マラリアを発症し、多くの皆様にご心配とご迷惑をおかけし、本当に申し訳ございませんでした。私のケースをもって他山の石としていただければと思い、マラリア発病と治療の様子や医師から聞いたマラリア情報やインターネットで調べたマラリア情報をまとめておきました。少しでも皆様の今後のご参考にしていただければ幸いです。
(参考資料)
1。 マラリアの検査・治療ができる日本の病院リスト
http://www.forth.go.jp/keneki/kanku/disease/malaria/malsodan.html
http://malaria.himeji-du.ac.jp/IPublic/malaria-net-j/hospitals.html
2. ハマダラカの写真
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/INSECT/10/10-1-2p.jpg
http://www.tm.nagasaki-u.ac.jp/medical/Mosquito%20Photo/An%20minimus.jpg
(コガタハマダラカ)
http://www.tm.nagasaki-u.ac.jp/medical/Mosquito%20Photo/An%20saperoi.jpg
(オオハマハマダラカ)
http://www.tm.nagasaki-u.ac.jp/medical/mosquito_around_the_world.html
(ガンビエハマダラカ)
西アフリカのシエラレオネに出張して
しばらくブログを更新するのを怠けておりましたが、いくつかたまった記事を載せておきます。まずは、2005年3月に3週間西アフリカ・シエラレオネに出張したときの報告をお送りします。
■シエラレオネという国
シエラレオネと聞いて、どこにある国か、わかる方は、かなりのアフリカ通か紛争通の方でしょう。私自身も今回の仕事があるまで、国名は聞いたことがあっても、シエラレオネがどこにあるのか、正確な場所は把握していませんでした。
シエラレオネは、国名こそポルトガル語で「ライオンの山」という意味ですが(シエラレオネにはもうライオンはいないようです)、首都がFreetown(自由の街)と言うように、18世紀末にイギリスからの解放奴隷の居住地として作られた国です。北から北東にかけてはギニア(フランス語圏)に、南東はリベリア(英語圏、アメリカの解放奴隷によって作られた国)に、南西は大西洋に接している西アフリカの国で、北海道くらいの面積に約500万人の人が暮らしています。英語が公用語で、首都では黒人と白人の混血のクレオール人が多く、クレオール語(かなり英語の語彙が多い)が標準語的に国内で広く話されていますが、私達の対象地域であるカンビア県では、民族語であるテムネ語やスス語も話されています。
シエラレオネが世界で有名になったのは、隣国リベリアのテイラー前大統領がシエラレオネのダイヤモンドの利権をねらってシエラレオネの反乱軍を訓練・支援したことをきっかけに、1991年から2002年まで11年間内戦がおこり、200万人以上の人が難民あるいは国内避難民になったこと、そして内戦中に5才以上の多くの子供が誘拐され少年兵・少女兵として従軍させられたこと(子供達は麻薬を打たれて恐怖感を麻痺させられた上で、AK47を持たされたそうで、一時反乱軍の約半数が児童兵だったと言われています)、さらに内戦中に1万人以上の民間人が手足を切断されたという残虐性にあります。
■紛争ダイヤモンドの国
リベリア経由で販売されたシエラレオネ産のダイヤモンドは、一般に「紛争ダイヤモンド」と呼ばれるダイヤモンドのひとつであり、一部はアルカイダに流れ、テロの資金源になったとも報道されています。世界のダイヤモンド取引の20%を占めていると言われる「紛争ダイヤモンド」は、シエラレオネ産以外にもギニア産、アンゴラ産、コンゴ産等があり、不法ダイヤモンドの大半は、レバノン人商人達によってダイヤ貿易の中心地であるベルギーのアントワープかイスラエルのテルアビブに運ばれ、その後、インド、タイ、モーリシャス、米国など世界約30カ国で加工され、先進国の宝石店の店頭に並ぶそうです。2001年の国際会議でダイヤモンドに原産国証明をつけることが決議され、国連も紛争ダイヤモンドの取り扱いを禁止していますが、原産国の偽造や密輸等の抜け道が後を絶たず、実効性についてはかなり疑問視されています。
■資源は豊かなのに・・・
シエラレオネは元々、鉱物資源(ダイヤモンド、金、チタン、ボーキサイト、鉄鉱石等)が豊富で、また気候的にも雨量(年2500〜3000 mm)が多い熱帯性の高温多湿気候で、稲作はじめ、農業に適した国です。田舎を歩いていても、バナナやマンゴが豊富になっているため、飢えはあまりなさそうに感じました。ちなみにヨーロッパ人の間では、世界一の品質といわれるマリファナがタバコよりも安く買えることでも有名だそうです。
海に面しているため、首都のFreetownでは水産物も豊富で、シーフード・レストランでは体長40〜50センチの巨大ロブスターの炭火焼きを1000〜1500円程度で食べることができます。水産物は冷凍されて日本にも輸出されているそうで、かつては日本の遠洋漁業船が沖合で操業していたそうですが、水産資源を乱獲してしまったため、今はあまり来ていないそうです。

フリータウンのレストランで巨大ロブスターを食べる浜ちゃん

オレンジ色のパーム油を多用した現地食
よく、シエラレオネの不幸は隣人(隣国)に恵まれなかったことだと言われています。シエラレオネはじめ、ギニア、リベリア、コートジボワールといった西アフリカの沿岸諸国は、一般に鉱物資源や食料に恵まれているといわれているのですが、どの国も政治的に安定せず、軍事独裁や内戦が絶えません(ダイヤモンドや石油という資源があるために内戦が起って、国民が犠牲を強いられた国は、この他にもアンゴラやナイジェリア等があります)。一方、内陸に入ったブルキナファソやニジェールは、サハラ砂漠の南端に位置しているため、資源が少なく気候的にもきびしいのですが、政治的にはわりと安定しており、住民には住みやすい国のようです。
■内戦の傷跡と目立つ国連・NGO
シエラレオネは、11年間の内戦のため、国内のインフラ(道路、水道、発電所、学校、病院等)はぼろぼろの状態です。首都でさえ毎日夜の1―2時間程度しか電気が来ないので、昼間は発電機を回さないと電気がなくて仕事もできない状況です。首都の省庁に行くと、援助団体から寄贈されたパソコンを何台も見かけますが、役所は発電機を回す予算がないため、パソコンはカバーをかけられてほこりまみれになっており、役人もボケ〜と無為に過ごしている人が目立ちます。私達は教育省でパワーポイントを使ったセミナーを実施しましたが、その際は、パソコンとプロジェクタだけでなく、発電機も持参して、自分で電気を起こしながら、発表しなければなりませんでした。地方に行くと、水道もありませんので、井戸水を自分で汲み上げてシャワーを浴びるという、19世紀のアフリカに戻ったようなアウトドア的生活も体験できます。
このように衛生環境の悪さとマラリアを始めとする熱帯病の宝庫であることから、5才未満の乳幼児死亡率は1000人中284人で、平均寿命は37才(共に2003年のデータ)と、世界で一番保健指標が悪い国になっています。
教育に関していえば、初等教育の粗就学率はまだ男子51%、女子41%と低く(2002年)、2001/2002年から初等教育の無償化を実施して、就学率の向上を図っている段階ですが、内戦でほぼ半数の小学校の校舎が破壊され、現在世界銀行等の資金援助を受けて小学校校舎の修復や新設が行われていますが、マネジメントの問題からか、なかなか進んでいないのが現状です。また、内戦により教育を受けることができなかった成人が多いため、成人識字率が36%(2001年)と低いのも特徴です。ちなみに、私達の対象地域のカンビア県はイスラム教徒が大多数を占めるため、女性の就学率が全国一低いことでも知られています。
シエラレオネの首都Freetownにはベルギー・ブラッセルから週3回直行便が飛んでいます。ベルギーと関係が深いことは上述したダイヤモンドの流通ルートだからだと思われます。なお、ベルギーからの直行便以外にもロンドンからの直行便や3月末から運航が開始されたばかりのニューヨークからの直行便(国連関係者が利用するから?)もあるそうです。Freetownのルンギ空港は市街地からは川向かいにあり、川を渡る橋がありませんので、空港から市街地に行くためには5〜10分ほどかけてヘリコプターで移動することが一般的です。フェリーやホーバークラフトもあるのですが、時間がかかること、お客が集まらないと出発しないこと、到着する港が市街地から離れていることにより、あまり利用されていません。ヘリコプターは25人乗りくらいのロシア製の大型機で、窓がなかったり、シートベルトが締まらなかったりと、あまりメンテナンス状況がよくありません。そのため、私と一緒にシエラレオネに入った日本人女性はヘリコプターをこわがって、帰国時はフェリーを利用されていましたが、かなりの時間がかかったようです。

フリータウンのルンギ空港に着いたら、次はヘリコプターで市内へ

ヘリコプターから見たフリータウンのAberdeen地区

フリータウンの中心地区:坂が多い長崎のような町です
シエラレオネの地方を車で走っていると、UNHCRやUNICEFやNGOの看板がやたらに目につきます(その中には、日本が資金だけ出して、英国DFIDが実施した「日英無償」の看板もあります)。内戦後のシエラレオネの復興のため、数多くの国際機関が巨額の資金を国際NGOに流してプロジェクトを実施してきたため(日本のNGOであるPeace Winds JapanもUNHCR資金で難民キャンプを運営しています)、国民にとっては、ほとんど機能していない政府よりもお金を持っている国際機関やNGOの方がよほど身近な存在になっているというわけです。なお、私達がシエラレオネにいる間、多くの国際NGOから接触があり、国連等による難民救援のプロジェクトが終了しようとしている今、彼らが日本からの新たな資金に期待していることがありありとわかりました。

UNHCR援助のCommunity Empowerment Projectの看板

日英無償で実施されたプロジェクトの看板
■紛争終結国での人間の安全保障案件を促進するJICA
今回、私達は、国際協力機構(JICA)の委託で、「シエラレオネ国カンビア県子供の社会復帰支援」プログラムのプロジェクト形成調査の第一次現地調査に行ってきたわけですが、このプログラムは、JICAの緒方貞子理事長が強力に推進している「人間の安全保障」案件の第2弾といわれています(第1弾はアンゴラ案件で、昨年9月から調査中だそうです)。緒方貞子理事長はUNHCRの長だった頃に、難民救援の仕事が終わった後、開発援助機関がすぐに入って来てくれないことをもどかしく思っておられたそうで、今JICAの長となって、難民救援の後、時期を逃さずに、すばやく開発援助機関であるJICAがプロジェクトを実施していくことを目指しているそうです。緒方理事長はJICAに人間の安全保障と平和構築という新しい援助理念を持ち込まれ、アフリカ重視、現場主義、スピードをいつも強調されているそうです。そのため、シエラレオネとアンゴラ以外にも、アフリカの多くの紛争終結国(エリトリア、チャド、ルワンダ、コンゴ民主共和国、スーダン、ガーナ北部等)に企画調査員やプロジェクト形成調査団が派遣されて、人間の安全保障案件のプロジェクト形成を活発に行っているそうで、今後これら紛争終結国で次々と(?)案件が実施されることになりそうです。
■私達の仕事について
今回の私達の仕事は、今年3月から8月まで、6ヶ月間かけてプロジェクト形成調査(フェーズ1)を実施し、その結果、相手国が要請書を提出し、日本政府が承認すれば、今年10月から3年間の実証事業付きの開発調査(フェーズ2)を実施しようというものです。フェーズ1とフェーズ2は同一のコンサルタントによって実施されるという「一気通貫方式」のため、要請書が無事出てくれば、私達がフェーズ2の実施も担当することになります。なお、シエラレオネの首都Freetownには今年1月にJICAフィールド事務所(各種プロジェクトの実施支援のための臨時事務所という位置づけです)が開設されており、現地の人材(元・赤十字勤務)を事務所常駐のコンサルタントとして雇用し、JICAガーナ事務所でシエラレオネを担当している企画調査員の方がガーナから出張ベースでこのフィールド事務所に頻繁に来ています。私達の現地調査も彼ら2人によるアレンジとサポートがなければとてもうまくいかなかっただろうと思われ、やはり現地事務所の重要性を感じました。
本プログラムは、ドナー各国が緊急的な難民救援から自立的な開発支援へとシエラレオネへの援助方針を変えようとしている時期にまさに実施されるもので、援助漬けだったシエラレオネで、役所や住民を対象にして、自立的な開発を支援していくというきわめてチャレンジングな目標を持っています。シエラレオネを管轄しているJICAガーナ事務所や在ガーナ日本大使館からは、これまで住民集会のたびに参加者(役人や住民)にsitting allowanceが支払われてきたが、どのドナーも交通費や昼食代といった実費以外のsitting allowanceは廃止したいと考えているので、このプログラムでその先例を作ってほしいと頼まれたりしました。つまり、私達の仕事は「JICAには(国際機関やNGOと違って)お金がない」ということをいかに現地の役人やNGOや住民にわかってもらうかにあるようです。
本プログラムは、シエラレオネの未来を担う子供や青年(内戦により教育を受けられなかったものが多く、成人識字率は36%にすぎません)を対象に、教育を通してコミュニティ開発を支援していこうというものです。現地に行く前は、戦争で身も心も傷ついた「暗い子供達」を想像しており、子供達を元気づけることができるような活動(遊びながら学べる、映画会や歌や踊りやスポーツや遠足や学校菜園といった活動)を学校で実施していこうかと考えていました。JICAアフリカ部の部長さんからは出発前に、「本調査では、相手国政府と政策対話や議論ができるコンサルタントよりも、子供と一緒になって遊べるお姉さんのようなコンサルタントを選びました」と言われたくらいです。しかし、実際に現地に行き、小学校を訪ねてみると、明るい子供達の笑顔や歌声に囲まれ、心理的にはかなりほっとしました。なお、15才〜35才の青年達を対象にした職業訓練コースを視察に行った調査団員は、元・児童兵や戦争中にレイプされた少女達にも会ったそうで、目つきが鋭い、暗い顔つきの青年が多かったと話していましたので、本プログラムの対象も、子供よりも青年に重点を置くことが現在検討されています。

カンビア県のコミュニティ・スクール:茅葺き屋根の校舎

青空学級の子供達:子供達の表情は明るい
本プログラムの中身はまだまだ調査途中のため、これから詰めていかなければいけない状況ですが、ポイントは「どうすれば援助終了後も持続可能なコミュニティ開発活動を実現できるか」という点にあります。対象県のカンビア県を訪問すると、これまで持続可能性を考えずにやりっぱなしの援助を行ってきた残骸(使われていない職業訓練所、建設途中で放棄された学校、援助が終わると同時に解散した住民グループ等)についてあちこちで見聞きしました。シエラレオネのような国では、政府が援助終了後に活動を継続してくれるということはほとんど期待できませんので、プログラム自体の中に運営資金を作り出すメカニズムを導入して、援助後も自分達だけで継続していけるように指導をしていく必要がありそうです。
■シエラレオネの日本人
ちなみにシエラレオネに1年以上住んでいる日本人は、UNICEFの方が1名、UNAMSIL(国連シエラレオネ派遣団という軍隊)の方が1名、Peace Winds JapanというNGOの駐在員が2名、カトリック系の学校を運営している日本人のシスターが2名(2人共20年以上シエラレオネで働いておられ、日本の「手を貸す運動」というカトリック系のNGOが支援をしています)、EU副代表(東京水産大学に留学したギリシャ人)の日本人の奥さん、チンパンジーのサンクチュアリーにいる日本人女性と、合計8名のようです。なお、国境なき医師団というNGOから半年間だけ派遣されてきている日本人看護師も地方の病院に1人いるそうです。以前にはダイヤモンドをねらって一山あてに来た日本の山師もいたそうですが、ダイヤモンドをめぐる争いに巻き込まれたのか、殺されてしまったそうです。シエラレオネには日本大使館もJICA事務所もありませんが、インド系3世のビジネスマン(ミネラルウオーターや水道管等を製造販売しています)が日本政府の名誉領事を引き受けています。

ルンサーで職業訓練校の校長をされているシスター根岸
■終わりに
以上が第1次現地調査終了時(2005年3月末)での中間報告ですが、今回の調査の最大の特徴は調査団メンバーに恵まれたことにあり、優秀なメンバーがそれぞれ実力を発揮してくれたため、まとめ役の私は本当に楽をさせていただきました。メンバーからも、「今回の調査団は本当によく食べ、よく笑った調査団だった」と言われ、楽しみながら仕事をすることができました。そのような楽しい調査団だったからこそ、過酷な環境の下でも、皆健康に過ごせて、仕事を全うすることができたように感じております。
日本ではまだほとんど知られていないシエラレオネですが、私達はこの仕事をきっかけにシエラレオネが日本で少しでも知られるようになればと考えておりますので、シエラレオネに関する質問等がありましたら、いつでも遠慮なくお問い合わせください。では、皆様からのご意見や励ましやアイデアを楽しみにしております。
■シエラレオネという国
シエラレオネと聞いて、どこにある国か、わかる方は、かなりのアフリカ通か紛争通の方でしょう。私自身も今回の仕事があるまで、国名は聞いたことがあっても、シエラレオネがどこにあるのか、正確な場所は把握していませんでした。
シエラレオネは、国名こそポルトガル語で「ライオンの山」という意味ですが(シエラレオネにはもうライオンはいないようです)、首都がFreetown(自由の街)と言うように、18世紀末にイギリスからの解放奴隷の居住地として作られた国です。北から北東にかけてはギニア(フランス語圏)に、南東はリベリア(英語圏、アメリカの解放奴隷によって作られた国)に、南西は大西洋に接している西アフリカの国で、北海道くらいの面積に約500万人の人が暮らしています。英語が公用語で、首都では黒人と白人の混血のクレオール人が多く、クレオール語(かなり英語の語彙が多い)が標準語的に国内で広く話されていますが、私達の対象地域であるカンビア県では、民族語であるテムネ語やスス語も話されています。
シエラレオネが世界で有名になったのは、隣国リベリアのテイラー前大統領がシエラレオネのダイヤモンドの利権をねらってシエラレオネの反乱軍を訓練・支援したことをきっかけに、1991年から2002年まで11年間内戦がおこり、200万人以上の人が難民あるいは国内避難民になったこと、そして内戦中に5才以上の多くの子供が誘拐され少年兵・少女兵として従軍させられたこと(子供達は麻薬を打たれて恐怖感を麻痺させられた上で、AK47を持たされたそうで、一時反乱軍の約半数が児童兵だったと言われています)、さらに内戦中に1万人以上の民間人が手足を切断されたという残虐性にあります。
■紛争ダイヤモンドの国
リベリア経由で販売されたシエラレオネ産のダイヤモンドは、一般に「紛争ダイヤモンド」と呼ばれるダイヤモンドのひとつであり、一部はアルカイダに流れ、テロの資金源になったとも報道されています。世界のダイヤモンド取引の20%を占めていると言われる「紛争ダイヤモンド」は、シエラレオネ産以外にもギニア産、アンゴラ産、コンゴ産等があり、不法ダイヤモンドの大半は、レバノン人商人達によってダイヤ貿易の中心地であるベルギーのアントワープかイスラエルのテルアビブに運ばれ、その後、インド、タイ、モーリシャス、米国など世界約30カ国で加工され、先進国の宝石店の店頭に並ぶそうです。2001年の国際会議でダイヤモンドに原産国証明をつけることが決議され、国連も紛争ダイヤモンドの取り扱いを禁止していますが、原産国の偽造や密輸等の抜け道が後を絶たず、実効性についてはかなり疑問視されています。
■資源は豊かなのに・・・
シエラレオネは元々、鉱物資源(ダイヤモンド、金、チタン、ボーキサイト、鉄鉱石等)が豊富で、また気候的にも雨量(年2500〜3000 mm)が多い熱帯性の高温多湿気候で、稲作はじめ、農業に適した国です。田舎を歩いていても、バナナやマンゴが豊富になっているため、飢えはあまりなさそうに感じました。ちなみにヨーロッパ人の間では、世界一の品質といわれるマリファナがタバコよりも安く買えることでも有名だそうです。
海に面しているため、首都のFreetownでは水産物も豊富で、シーフード・レストランでは体長40〜50センチの巨大ロブスターの炭火焼きを1000〜1500円程度で食べることができます。水産物は冷凍されて日本にも輸出されているそうで、かつては日本の遠洋漁業船が沖合で操業していたそうですが、水産資源を乱獲してしまったため、今はあまり来ていないそうです。

フリータウンのレストランで巨大ロブスターを食べる浜ちゃん

オレンジ色のパーム油を多用した現地食
よく、シエラレオネの不幸は隣人(隣国)に恵まれなかったことだと言われています。シエラレオネはじめ、ギニア、リベリア、コートジボワールといった西アフリカの沿岸諸国は、一般に鉱物資源や食料に恵まれているといわれているのですが、どの国も政治的に安定せず、軍事独裁や内戦が絶えません(ダイヤモンドや石油という資源があるために内戦が起って、国民が犠牲を強いられた国は、この他にもアンゴラやナイジェリア等があります)。一方、内陸に入ったブルキナファソやニジェールは、サハラ砂漠の南端に位置しているため、資源が少なく気候的にもきびしいのですが、政治的にはわりと安定しており、住民には住みやすい国のようです。
■内戦の傷跡と目立つ国連・NGO
シエラレオネは、11年間の内戦のため、国内のインフラ(道路、水道、発電所、学校、病院等)はぼろぼろの状態です。首都でさえ毎日夜の1―2時間程度しか電気が来ないので、昼間は発電機を回さないと電気がなくて仕事もできない状況です。首都の省庁に行くと、援助団体から寄贈されたパソコンを何台も見かけますが、役所は発電機を回す予算がないため、パソコンはカバーをかけられてほこりまみれになっており、役人もボケ〜と無為に過ごしている人が目立ちます。私達は教育省でパワーポイントを使ったセミナーを実施しましたが、その際は、パソコンとプロジェクタだけでなく、発電機も持参して、自分で電気を起こしながら、発表しなければなりませんでした。地方に行くと、水道もありませんので、井戸水を自分で汲み上げてシャワーを浴びるという、19世紀のアフリカに戻ったようなアウトドア的生活も体験できます。
このように衛生環境の悪さとマラリアを始めとする熱帯病の宝庫であることから、5才未満の乳幼児死亡率は1000人中284人で、平均寿命は37才(共に2003年のデータ)と、世界で一番保健指標が悪い国になっています。
教育に関していえば、初等教育の粗就学率はまだ男子51%、女子41%と低く(2002年)、2001/2002年から初等教育の無償化を実施して、就学率の向上を図っている段階ですが、内戦でほぼ半数の小学校の校舎が破壊され、現在世界銀行等の資金援助を受けて小学校校舎の修復や新設が行われていますが、マネジメントの問題からか、なかなか進んでいないのが現状です。また、内戦により教育を受けることができなかった成人が多いため、成人識字率が36%(2001年)と低いのも特徴です。ちなみに、私達の対象地域のカンビア県はイスラム教徒が大多数を占めるため、女性の就学率が全国一低いことでも知られています。
シエラレオネの首都Freetownにはベルギー・ブラッセルから週3回直行便が飛んでいます。ベルギーと関係が深いことは上述したダイヤモンドの流通ルートだからだと思われます。なお、ベルギーからの直行便以外にもロンドンからの直行便や3月末から運航が開始されたばかりのニューヨークからの直行便(国連関係者が利用するから?)もあるそうです。Freetownのルンギ空港は市街地からは川向かいにあり、川を渡る橋がありませんので、空港から市街地に行くためには5〜10分ほどかけてヘリコプターで移動することが一般的です。フェリーやホーバークラフトもあるのですが、時間がかかること、お客が集まらないと出発しないこと、到着する港が市街地から離れていることにより、あまり利用されていません。ヘリコプターは25人乗りくらいのロシア製の大型機で、窓がなかったり、シートベルトが締まらなかったりと、あまりメンテナンス状況がよくありません。そのため、私と一緒にシエラレオネに入った日本人女性はヘリコプターをこわがって、帰国時はフェリーを利用されていましたが、かなりの時間がかかったようです。

フリータウンのルンギ空港に着いたら、次はヘリコプターで市内へ

ヘリコプターから見たフリータウンのAberdeen地区

フリータウンの中心地区:坂が多い長崎のような町です
シエラレオネの地方を車で走っていると、UNHCRやUNICEFやNGOの看板がやたらに目につきます(その中には、日本が資金だけ出して、英国DFIDが実施した「日英無償」の看板もあります)。内戦後のシエラレオネの復興のため、数多くの国際機関が巨額の資金を国際NGOに流してプロジェクトを実施してきたため(日本のNGOであるPeace Winds JapanもUNHCR資金で難民キャンプを運営しています)、国民にとっては、ほとんど機能していない政府よりもお金を持っている国際機関やNGOの方がよほど身近な存在になっているというわけです。なお、私達がシエラレオネにいる間、多くの国際NGOから接触があり、国連等による難民救援のプロジェクトが終了しようとしている今、彼らが日本からの新たな資金に期待していることがありありとわかりました。

UNHCR援助のCommunity Empowerment Projectの看板

日英無償で実施されたプロジェクトの看板
■紛争終結国での人間の安全保障案件を促進するJICA
今回、私達は、国際協力機構(JICA)の委託で、「シエラレオネ国カンビア県子供の社会復帰支援」プログラムのプロジェクト形成調査の第一次現地調査に行ってきたわけですが、このプログラムは、JICAの緒方貞子理事長が強力に推進している「人間の安全保障」案件の第2弾といわれています(第1弾はアンゴラ案件で、昨年9月から調査中だそうです)。緒方貞子理事長はUNHCRの長だった頃に、難民救援の仕事が終わった後、開発援助機関がすぐに入って来てくれないことをもどかしく思っておられたそうで、今JICAの長となって、難民救援の後、時期を逃さずに、すばやく開発援助機関であるJICAがプロジェクトを実施していくことを目指しているそうです。緒方理事長はJICAに人間の安全保障と平和構築という新しい援助理念を持ち込まれ、アフリカ重視、現場主義、スピードをいつも強調されているそうです。そのため、シエラレオネとアンゴラ以外にも、アフリカの多くの紛争終結国(エリトリア、チャド、ルワンダ、コンゴ民主共和国、スーダン、ガーナ北部等)に企画調査員やプロジェクト形成調査団が派遣されて、人間の安全保障案件のプロジェクト形成を活発に行っているそうで、今後これら紛争終結国で次々と(?)案件が実施されることになりそうです。
■私達の仕事について
今回の私達の仕事は、今年3月から8月まで、6ヶ月間かけてプロジェクト形成調査(フェーズ1)を実施し、その結果、相手国が要請書を提出し、日本政府が承認すれば、今年10月から3年間の実証事業付きの開発調査(フェーズ2)を実施しようというものです。フェーズ1とフェーズ2は同一のコンサルタントによって実施されるという「一気通貫方式」のため、要請書が無事出てくれば、私達がフェーズ2の実施も担当することになります。なお、シエラレオネの首都Freetownには今年1月にJICAフィールド事務所(各種プロジェクトの実施支援のための臨時事務所という位置づけです)が開設されており、現地の人材(元・赤十字勤務)を事務所常駐のコンサルタントとして雇用し、JICAガーナ事務所でシエラレオネを担当している企画調査員の方がガーナから出張ベースでこのフィールド事務所に頻繁に来ています。私達の現地調査も彼ら2人によるアレンジとサポートがなければとてもうまくいかなかっただろうと思われ、やはり現地事務所の重要性を感じました。
本プログラムは、ドナー各国が緊急的な難民救援から自立的な開発支援へとシエラレオネへの援助方針を変えようとしている時期にまさに実施されるもので、援助漬けだったシエラレオネで、役所や住民を対象にして、自立的な開発を支援していくというきわめてチャレンジングな目標を持っています。シエラレオネを管轄しているJICAガーナ事務所や在ガーナ日本大使館からは、これまで住民集会のたびに参加者(役人や住民)にsitting allowanceが支払われてきたが、どのドナーも交通費や昼食代といった実費以外のsitting allowanceは廃止したいと考えているので、このプログラムでその先例を作ってほしいと頼まれたりしました。つまり、私達の仕事は「JICAには(国際機関やNGOと違って)お金がない」ということをいかに現地の役人やNGOや住民にわかってもらうかにあるようです。
本プログラムは、シエラレオネの未来を担う子供や青年(内戦により教育を受けられなかったものが多く、成人識字率は36%にすぎません)を対象に、教育を通してコミュニティ開発を支援していこうというものです。現地に行く前は、戦争で身も心も傷ついた「暗い子供達」を想像しており、子供達を元気づけることができるような活動(遊びながら学べる、映画会や歌や踊りやスポーツや遠足や学校菜園といった活動)を学校で実施していこうかと考えていました。JICAアフリカ部の部長さんからは出発前に、「本調査では、相手国政府と政策対話や議論ができるコンサルタントよりも、子供と一緒になって遊べるお姉さんのようなコンサルタントを選びました」と言われたくらいです。しかし、実際に現地に行き、小学校を訪ねてみると、明るい子供達の笑顔や歌声に囲まれ、心理的にはかなりほっとしました。なお、15才〜35才の青年達を対象にした職業訓練コースを視察に行った調査団員は、元・児童兵や戦争中にレイプされた少女達にも会ったそうで、目つきが鋭い、暗い顔つきの青年が多かったと話していましたので、本プログラムの対象も、子供よりも青年に重点を置くことが現在検討されています。

カンビア県のコミュニティ・スクール:茅葺き屋根の校舎

青空学級の子供達:子供達の表情は明るい
本プログラムの中身はまだまだ調査途中のため、これから詰めていかなければいけない状況ですが、ポイントは「どうすれば援助終了後も持続可能なコミュニティ開発活動を実現できるか」という点にあります。対象県のカンビア県を訪問すると、これまで持続可能性を考えずにやりっぱなしの援助を行ってきた残骸(使われていない職業訓練所、建設途中で放棄された学校、援助が終わると同時に解散した住民グループ等)についてあちこちで見聞きしました。シエラレオネのような国では、政府が援助終了後に活動を継続してくれるということはほとんど期待できませんので、プログラム自体の中に運営資金を作り出すメカニズムを導入して、援助後も自分達だけで継続していけるように指導をしていく必要がありそうです。
■シエラレオネの日本人
ちなみにシエラレオネに1年以上住んでいる日本人は、UNICEFの方が1名、UNAMSIL(国連シエラレオネ派遣団という軍隊)の方が1名、Peace Winds JapanというNGOの駐在員が2名、カトリック系の学校を運営している日本人のシスターが2名(2人共20年以上シエラレオネで働いておられ、日本の「手を貸す運動」というカトリック系のNGOが支援をしています)、EU副代表(東京水産大学に留学したギリシャ人)の日本人の奥さん、チンパンジーのサンクチュアリーにいる日本人女性と、合計8名のようです。なお、国境なき医師団というNGOから半年間だけ派遣されてきている日本人看護師も地方の病院に1人いるそうです。以前にはダイヤモンドをねらって一山あてに来た日本の山師もいたそうですが、ダイヤモンドをめぐる争いに巻き込まれたのか、殺されてしまったそうです。シエラレオネには日本大使館もJICA事務所もありませんが、インド系3世のビジネスマン(ミネラルウオーターや水道管等を製造販売しています)が日本政府の名誉領事を引き受けています。

ルンサーで職業訓練校の校長をされているシスター根岸
■終わりに
以上が第1次現地調査終了時(2005年3月末)での中間報告ですが、今回の調査の最大の特徴は調査団メンバーに恵まれたことにあり、優秀なメンバーがそれぞれ実力を発揮してくれたため、まとめ役の私は本当に楽をさせていただきました。メンバーからも、「今回の調査団は本当によく食べ、よく笑った調査団だった」と言われ、楽しみながら仕事をすることができました。そのような楽しい調査団だったからこそ、過酷な環境の下でも、皆健康に過ごせて、仕事を全うすることができたように感じております。
日本ではまだほとんど知られていないシエラレオネですが、私達はこの仕事をきっかけにシエラレオネが日本で少しでも知られるようになればと考えておりますので、シエラレオネに関する質問等がありましたら、いつでも遠慮なくお問い合わせください。では、皆様からのご意見や励ましやアイデアを楽しみにしております。
タイのごみ調査に参加して
私は2004年6月26日から7月25日まで1ヶ月間、国際協力銀行(JBIC)の提案型調査「タイ国官民協力ごみ管理システム構築可能性調査」(元請:廃棄物政策研究所)で、タイに出張して来ました。この調査について、以下に簡単に内容をご紹介したいと思います。
(1)本調査に至る経緯
本調査は、2002年11月に提案型調査としてJBICにプレ・プロポーザルを提出し、2003年1月に本プロポーザルを提出し、2003年2月にJBICによる面接・プレゼンテーション審査を受けた結果、2003年3月にJBICによって採択され、2004年3月にタイ側カウンターパート(天然資源環境省の公害防止局及び天然資源・環境政策・計画部)と合意書を取り交わして開始されたものです。聞くところによると、大変な数の応募があった中、採択された数少ない提案型調査ということです。
本調査がきびしい競争を勝ち抜いてJBICに採択された理由を私なりに推測してみますと、(a)JBICが過去に実施した事業(タイ国環境保全基金事業)に密接に関連した(発展的な)案件であり、かつ(b)提案者(廃棄物政策研究所の代表和田英樹氏)がJBICの仕事(タイ国環境保全基金事業の案件実施支援調査(SAPI)フェーズ1及びフェーズ2)の経験があり、さらに(c)日本の民間がもっている廃棄物処理業・リサイクルの経験を移転するというアイデアが評価された、と感じております。
タイ国環境保全基金事業は、タイの地方自治体(municipalities)がごみ・下水処理施設を整備促進することを目的に、1994年から2004年1月まで実施された円借款案件(エンジニアリング・サービス実施:パデコ)ですが、地方自治体におけるごみ・下水処理施設の整備がなかなか進まないという問題が生じたため、2001年秋にこの案件の案件実施支援調査(SAPI)フェーズ1(実施:日本工営)が実施され、地方自治体向けのごみ・下水処理施設整備の案件形成マニュアルを作成し、地方自治体向けの研修を実施しました。さらに、2003年秋には、具体的に3つの地方自治体を選んで、ごみ処理施設整備というハードウエアだけではなく、ごみの収集からリサイクルに至るまでのソフトウエアも含んだ総合的な戦略計画策定を支援するSAPIフェーズ2(実施:廃棄物政策研究所・日本工営)が実施されました。
じつは私が廃棄物政策研究所(社員数わずかに3名の会社です)の和田英樹氏と知り合ったのも、2001年秋に実施されたSAPIフェーズ1の時で、和田氏は当時私と同じく一団員として参加されていましたが、和田氏の「大局観をもった精力的な仕事ぶり」は当時から調査団の中でぬきんでていて、カウンターパートの評価も高かったことをよく覚えています。なお、和田氏はSAPIフェーズ2では団長を務めています。
(2)本調査の目的
本提案型調査は、このような流れの中で、SAPIフェーズ2のフォローアップをしながら、かつ日本の廃棄物処理業の経営・技術ノウハウを活用してタイの地方自治体に協力する可能性を、官民協力(Public-Private Partnership、略してPPPといいます)というフレームワークの中で探っていこうという目的で実施されました。
(3)本調査の特徴:日本の経験を移転する
この調査が生まれた背景には、今回の調査団長の和田氏の中に、日本の経験をタイに持ち込むには、実際に日本でごみ問題に取り組んできた経験を持つ人を連れてきたい、それには日本の廃棄物コンサルタントではなく、実際に最終処分場の建設・運営や住民対策や廃棄物起源のリサイクル事業に取り組んでいる日本の廃棄物処理業の人に来てもらうのが一番ということになり、今回の調査には日本の廃棄物処理業((株)ヤマゼン)の方2名が参加しました。実際に彼らは今回の調査期間中に4つの地方自治体の最終処分場(埋立地)を視察しましたが、彼らの経験から具体的な最終処分場運営の改善策を提言してもらえましたし、また民間企業として将来タイに協力する可能性についても忌憚のない意見を出していただけました。
(4)タイのごみ処理の現状と日本の経験との関連性
タイではこれまで1000以上のごみ最終処分場(埋立地)が建設されてきましたが、そのうち国家の環境基準(悪臭、汚水等)を満たしているのは、環境保全基金などによって融資されて最近建設された104カ所にすぎず(その中で「衛生埋立」と呼ばれる国際的な環境基準に達しているのは、さらに10分の1ほどしかないのが現状です)、まだまだopen dumpingと呼ばれる、何の処理もせずにごみをただ捨てるだけのごみ捨て場が多いのが現状です。さらに悪いことには、衛生埋立地として設計され、施設的にはその条件を満たしているにも関わらず、管理・運営予算の不足や管理者の不在あるいは意識の低さから、しっかりした管理・運営がなされていないために、悪臭・汚水問題が発生している最終処分場が多々あります。一例として、私達がタイ東北部のコンケンで見た管理の悪い最終処分場の写真を下記につけておきます。

タイ東北部コンケン市の悪臭漂う最終処分場
このようなごみ捨て場からの悪臭・汚水による環境問題は周辺住民からごみ捨て場の新規建設反対運動(Not In My Back Yardを略してNIMBY問題といわれています)が起こる原因となり、またごみ捨て場の劣悪な環境の中で労働と生活をせざるを得ないごみあさりの人達(英語ではscavengersと言っていましたが、より中立的なwaste pickersという言い方に言い換えるようになってきています)への健康被害問題も大きな問題となってきています。
和田氏によると、日本でも30年ほど前は同じような状況の処分場が普通に見られたそうです。しかし、その後、日本はリサイクル可能なごみ(紙、金属、びん等)の「分別収集」を、自治体の政策によって強制的に導入しました。また、土地のない日本では焼却炉が普及したために、日本の最終処分場は焼却灰を埋め立てる衛生埋立が多いのですが、この最終処分場が政府が決めた構造基準を遵守しているため、現在では悪臭はほとんどなく、また汚水管理もしっかりとなされており、周辺住民からの苦情も大幅に減ったそうです。
このように、ごみ問題は、単にごみ処理施設というハードウエアを建設するだけで解決する単純な問題ではなく、政府による強力な誘導政策(特にごみの分別収集・リサイクル政策)、民間企業の育成と技術開発、行政による民間企業への柔軟な委託制度と適正な監督・指導体制、住民の意識改革と住民参加、等と「社会システム」全体にまたがる解決策が必要な、きわめて総合的・社会的な問題であり、援助でも、政策提言、住民への教育活動、地方自治体や民間企業の能力開発・育成といったものを含んだ総合的な処方箋の実施を支援することが重要になってきます。
ちなみに、ごみの混合収集(ごみを分別しないで収集すること)が当たり前となっているタイで、日本のごみの分別収集の話をしますと、タイ人からは「タイ人は日本人ほど勤勉でないから、ごみを家庭で分別してもらうなんて無理だ」という答えが必ず返ってきますが、皆様もよくご存じのように、日本人が勤勉だから自ら進んでごみの分別をしているというわけでは決してありません。日本人は自治体によって分別を「強制」されているので(つまり、分別しないとごみを収集してくれないので)、分別収集に協力せざるをえなくなっているというのが実態なのです。
タイでも、学校やNGO等を中心に、ごみ銀行(ごみを持って行くと、それを金額換算して銀行預金としてくれる)や、有価ごみを栄養価の高い卵に交換してくれる運動(Garbage for Eggs)や、EM菌を利用した生ゴミの堆肥化に取り組む等、小規模なリサイクル活動が始まってきていますが、まだまだ規模が小さく散発的なことが弱点です。今後、リサイクル活動を本格化し広域に普及していくためには、どうしても地方自治体による誘導政策が必要だといえます。参考までに、下記にごみを原材料にして装飾品を作って販売している、タイ東北部のシサケットの学校の写真と、コンケンでNGOが生ゴミから堆肥を作っている様子の写真をつけておきます。

ごみを原材料にして装飾品を作って販売しているタイ東北部のシサケットの学校

生ゴミから堆肥を作っているコンケン市のNGO
したがって、自治体がごみの分別収集の必要性(リサイクル率の向上とごみ収集・処理コストの低減に有効)を住民に十分に説明して実施に移していくという「強い意志」を持つことがまずなによりも重要だと私達は考えており、そのようにタイの自治体にはっぱをかけています。もっともごみ収集サービスが普及していない地域、すなわちごみがどこにでも投げ捨てられているような地域では、まずはごみ収集サービスを普及して、住民の衛生観念向上と衛生的な環境作りを確立することが先決だといえますが。
(5)日本の民間企業の参入可能性と政府による支援政策の重要性
これまでにもタイに進出してきた日本の廃棄物処理業者がないわけではないのですが、すべて工業団地における日系企業の産業廃棄物処理を対象にしており、地方自治体が扱っている一般廃棄物処理にはまだどの日本企業も手を出しておりません。2002年のタイ全体のごみ発生量でいえば、有害産業廃棄物は96万3000トンですが、一般廃棄物は1440万トンと1.5倍の量が発生しています。一般廃棄物の内容としては、生ゴミ(51%)、プラスティック類(22%)、紙(13%)、ガラス類(3%)等が主なものです。
日本企業が一般廃棄物処理にまだ手を出していない原因のひとつには、産業廃棄物処理(特に有害廃棄物処理)は一般廃棄物処理に比べて約10倍の処理料金を排出源の民間企業から徴収できるのに対し、一般廃棄物については各世帯から毎月定額のごみ料金(1世帯あたり月20〜40バーツ程度、1バーツは約3円)を集めているが、このごみ料金が安すぎることと料金徴収率が20%程度ときわめて低いことがあげられます。実際、どの自治体もごみ収集・処理に関しては赤字で運営しており、住民からの税金で赤字を補填しています。(実は日本でも、家庭ごみの収集・処分料金の多くは税金でまかなわれていますが)
つまり、民間企業としては、ごみ料金を費用にみあった金額に増額する(つまり、法律によって月40バーツと上限額が決められているごみ料金の上限額を撤廃し、従量制の料金体系へと移行する)ことが可能になり、また、ごみ処理だけではなかなかもうかる事業にはならないので、より利益がでやすいリサイクル事業等(生ごみの堆肥化やバイオガス発電も含みます)をあわせて実施するために、現在インフォーマルにリサイクルを行っている人達(Salengという三輪車で家庭から有価ごみを買い取って回る人達、収集途中で有価物を抜き取る市の収集人達、ごみ捨て場で有価物をあさる人達、と3段階で有価物が抜き取られる構造になっています)を今後どうするのかを政府がはっきりした態度を取ってくれない限り、リスクが大きすぎて投資できないというのが実状なのです。
実は日本の廃棄物処理業者も、創業者はインフォーマルな廃品回収業者から出発したところが多く、その歴史を考えれば、タイでもごみのリサイクルをインフォーマルに実施している人達を組織化し、リサイクル産業へと再編していく可能性は十分あるといえます。そして、そのためには政府による「政策的な誘導」が重要だと私達は考えています。シサケットでは、最終処分場に暮らしているごみあさりの人達(下記写真)を登録して、徐々に組織化を図っていこうという動きも出ています。

シサケットの最終処分場に暮らしているごみあさりの人達
つまり、ごみ収集・処理の民間委託を促進するためには、地方自治体が単に民間企業に丸投げ的に委託契約を行うのではなく、地方自治体がごみ料金に関する新政策やごみの分別収集やリサイクルに関する新政策を立案・実施して、民間が投資しやすい環境をまず作り、さらに民間が創意工夫をこらせるような柔軟な形の契約形態を用意することが大切なのです。
(6)タイの民営化の失敗の経験と政府の役割の重要性
タイ政府は1992年の国家環境品質法(NEQA)で、地方自治体がごみ処理サービスを民営化することを許可しており、その後の国家開発計画でも効率的なサービス提供と国家財政への負担の減少の観点から民営化が推奨されていますが、これまで民営化のケースは少なく、またそのわずかな民営化の例でも成功例はさらに少なかったのが実態です。ピサヌローク等の市では、民営化後満足のいくサービスが民間企業から提供されなかったため、再び公営化したほどです。このような民営化の失敗の大きな原因は、上述したような地方自治体が果たすべき政策面からの支援をおろそかにしたまま、民間企業に丸投げ的に安易に民営化を実施した点にあるといえます。その意味から、本調査では民営化(Privatization)という言葉を避け、官民協力(Public-Private Partnership)という言葉を使用して、「政府が果たすべき役割」を強調しています。
(7)タイの民間企業の能力育成の必要性
また、タイの民間企業の方も十分な能力がないまま、安易に委託契約を引き受けたところが多く、契約上のサービスさえ満足に提供できずに撤退した会社もあります。そこで、本調査では日本の廃棄物処理業者がタイの廃棄物処理業者に技術・資金協力する可能性についても検討しており、現在関心のあるタイ企業と日本企業の間でお見合いの話を少しずつ進めております。日本企業としては、すぐにタイに投資するというリスクはなかなかとれませんので、まずは人的交流やつきあいを深めていくところから始めて行きたいと考えています。
(8)自治体間連携による広域施設の可能性
本調査でもうひとつ議論になっているのは、タイの自治体間の協力・連携による広域ごみ選別・処分施設の建設・運営の可能性です。日本では、都市部で最終処分場(埋立地)を作る立地が限られてきているため、都市が周辺の市町村と協力して(複数の市町村による広域衛生組合を設立して)、参加する自治体がごみ量に応じて資金を分担して、周辺の町村部に立地する広域ごみ選別・処分施設を建設・運営するという例があります(町村部の自治体にとっては、単独でごみ処理施設を建設するより少ない分担金で施設ができるというメリットがあります)ので、このタイ版ができないかと検討しているわけです。
タイの地方自治体は、バンコク首都圏とパタヤ特別市以外に、Provincial Administrative Organizations(略称PAO、全国に76ある、日本でいう県庁にあたる)、Municipalities(全国に1,129ある、日本でいう市役所にあたる)、Tambon Administrative Organizations(略称TAO、全国に6,746ある、日本でいう村役場にあたる)というさまざまなレベルからなっていますが、ごみ問題でこれまで環境保全基金が融資の対象としてきたMunicipalitiesは実はまだましな状況の方で、一番の問題は全くごみ収集・処理が行われていない(つまり、ごみが投げ捨て状態にある)TAOが農村部に多数あることです。
そこで、私達はMunicipalitiesに周辺部のTAOを巻き込んだ形での広域ごみ選別・処理施設を建設できないかと考えているのですが、じつはすでに周辺部のTAOからのごみを受け入れているMunicipalitiesは結構あります。問題は、周辺部のTAOとの政策協調がなく、また非常に安価にごみを受け入れているため(1トン130-200バーツ程度)、埋立地の残り容量が少なくなってきたので、ごみ減量やリサイクルに取り組もうとしても、周辺のTAOからの協力が得られる保証がないという点にあります。そこで、本調査団では、広域自治体連合(Union)のような組織をまず作ってもらい、そのような場で各自治体間が対等の立場でゴミ料金や分別収集・リサイクル制度に関する政策協議や政策協調を行える体制を構築してから、広域ごみ選別・処分施設を建設・運営することを提案しています。
日本では、中央政府による地方自治体のごみ選別・処分施設への補助金は、対象となる市町村のごみ量に応じた規模の施設に対してしかでませんので、効率のよい大規模処理施設を作るためには、自治体が広域自治体連合をつくって補助金を申請する必要があったのですが、ここタイでは実際の地方自治体におけるごみ需要よりも大規模なごみ処理施設が環境保全基金からの融資等で建設される例が多く、また地方自治体同士で協力し合って広域ごみ処分場を建設する政策的な仕組みもまったくできていませんので、今後はゴミ発生量に応じた融資規模の適正化や、自治体間連携による広域処分場建設への促進策・優遇策といった政策が必要といえます。
以上、調査の内容を簡単に報告させていただきましたが、実は私はタイの専門家でもなく、またごみの専門家でもありません。したがいまして、上述の内容のほとんどがこの調査期間中に、団長を始めとするメンバーの方々から、門前の小僧よろしく学ばせていただいたことなのですが、私の理解力不足や不勉強のために、不注意に間違って記述してしまったこともあるかもしれません。その際は後学のためにも遠慮なく間違いをご指摘していただければ幸いです。
(1)本調査に至る経緯
本調査は、2002年11月に提案型調査としてJBICにプレ・プロポーザルを提出し、2003年1月に本プロポーザルを提出し、2003年2月にJBICによる面接・プレゼンテーション審査を受けた結果、2003年3月にJBICによって採択され、2004年3月にタイ側カウンターパート(天然資源環境省の公害防止局及び天然資源・環境政策・計画部)と合意書を取り交わして開始されたものです。聞くところによると、大変な数の応募があった中、採択された数少ない提案型調査ということです。
本調査がきびしい競争を勝ち抜いてJBICに採択された理由を私なりに推測してみますと、(a)JBICが過去に実施した事業(タイ国環境保全基金事業)に密接に関連した(発展的な)案件であり、かつ(b)提案者(廃棄物政策研究所の代表和田英樹氏)がJBICの仕事(タイ国環境保全基金事業の案件実施支援調査(SAPI)フェーズ1及びフェーズ2)の経験があり、さらに(c)日本の民間がもっている廃棄物処理業・リサイクルの経験を移転するというアイデアが評価された、と感じております。
タイ国環境保全基金事業は、タイの地方自治体(municipalities)がごみ・下水処理施設を整備促進することを目的に、1994年から2004年1月まで実施された円借款案件(エンジニアリング・サービス実施:パデコ)ですが、地方自治体におけるごみ・下水処理施設の整備がなかなか進まないという問題が生じたため、2001年秋にこの案件の案件実施支援調査(SAPI)フェーズ1(実施:日本工営)が実施され、地方自治体向けのごみ・下水処理施設整備の案件形成マニュアルを作成し、地方自治体向けの研修を実施しました。さらに、2003年秋には、具体的に3つの地方自治体を選んで、ごみ処理施設整備というハードウエアだけではなく、ごみの収集からリサイクルに至るまでのソフトウエアも含んだ総合的な戦略計画策定を支援するSAPIフェーズ2(実施:廃棄物政策研究所・日本工営)が実施されました。
じつは私が廃棄物政策研究所(社員数わずかに3名の会社です)の和田英樹氏と知り合ったのも、2001年秋に実施されたSAPIフェーズ1の時で、和田氏は当時私と同じく一団員として参加されていましたが、和田氏の「大局観をもった精力的な仕事ぶり」は当時から調査団の中でぬきんでていて、カウンターパートの評価も高かったことをよく覚えています。なお、和田氏はSAPIフェーズ2では団長を務めています。
(2)本調査の目的
本提案型調査は、このような流れの中で、SAPIフェーズ2のフォローアップをしながら、かつ日本の廃棄物処理業の経営・技術ノウハウを活用してタイの地方自治体に協力する可能性を、官民協力(Public-Private Partnership、略してPPPといいます)というフレームワークの中で探っていこうという目的で実施されました。
(3)本調査の特徴:日本の経験を移転する
この調査が生まれた背景には、今回の調査団長の和田氏の中に、日本の経験をタイに持ち込むには、実際に日本でごみ問題に取り組んできた経験を持つ人を連れてきたい、それには日本の廃棄物コンサルタントではなく、実際に最終処分場の建設・運営や住民対策や廃棄物起源のリサイクル事業に取り組んでいる日本の廃棄物処理業の人に来てもらうのが一番ということになり、今回の調査には日本の廃棄物処理業((株)ヤマゼン)の方2名が参加しました。実際に彼らは今回の調査期間中に4つの地方自治体の最終処分場(埋立地)を視察しましたが、彼らの経験から具体的な最終処分場運営の改善策を提言してもらえましたし、また民間企業として将来タイに協力する可能性についても忌憚のない意見を出していただけました。
(4)タイのごみ処理の現状と日本の経験との関連性
タイではこれまで1000以上のごみ最終処分場(埋立地)が建設されてきましたが、そのうち国家の環境基準(悪臭、汚水等)を満たしているのは、環境保全基金などによって融資されて最近建設された104カ所にすぎず(その中で「衛生埋立」と呼ばれる国際的な環境基準に達しているのは、さらに10分の1ほどしかないのが現状です)、まだまだopen dumpingと呼ばれる、何の処理もせずにごみをただ捨てるだけのごみ捨て場が多いのが現状です。さらに悪いことには、衛生埋立地として設計され、施設的にはその条件を満たしているにも関わらず、管理・運営予算の不足や管理者の不在あるいは意識の低さから、しっかりした管理・運営がなされていないために、悪臭・汚水問題が発生している最終処分場が多々あります。一例として、私達がタイ東北部のコンケンで見た管理の悪い最終処分場の写真を下記につけておきます。

タイ東北部コンケン市の悪臭漂う最終処分場
このようなごみ捨て場からの悪臭・汚水による環境問題は周辺住民からごみ捨て場の新規建設反対運動(Not In My Back Yardを略してNIMBY問題といわれています)が起こる原因となり、またごみ捨て場の劣悪な環境の中で労働と生活をせざるを得ないごみあさりの人達(英語ではscavengersと言っていましたが、より中立的なwaste pickersという言い方に言い換えるようになってきています)への健康被害問題も大きな問題となってきています。
和田氏によると、日本でも30年ほど前は同じような状況の処分場が普通に見られたそうです。しかし、その後、日本はリサイクル可能なごみ(紙、金属、びん等)の「分別収集」を、自治体の政策によって強制的に導入しました。また、土地のない日本では焼却炉が普及したために、日本の最終処分場は焼却灰を埋め立てる衛生埋立が多いのですが、この最終処分場が政府が決めた構造基準を遵守しているため、現在では悪臭はほとんどなく、また汚水管理もしっかりとなされており、周辺住民からの苦情も大幅に減ったそうです。
このように、ごみ問題は、単にごみ処理施設というハードウエアを建設するだけで解決する単純な問題ではなく、政府による強力な誘導政策(特にごみの分別収集・リサイクル政策)、民間企業の育成と技術開発、行政による民間企業への柔軟な委託制度と適正な監督・指導体制、住民の意識改革と住民参加、等と「社会システム」全体にまたがる解決策が必要な、きわめて総合的・社会的な問題であり、援助でも、政策提言、住民への教育活動、地方自治体や民間企業の能力開発・育成といったものを含んだ総合的な処方箋の実施を支援することが重要になってきます。
ちなみに、ごみの混合収集(ごみを分別しないで収集すること)が当たり前となっているタイで、日本のごみの分別収集の話をしますと、タイ人からは「タイ人は日本人ほど勤勉でないから、ごみを家庭で分別してもらうなんて無理だ」という答えが必ず返ってきますが、皆様もよくご存じのように、日本人が勤勉だから自ら進んでごみの分別をしているというわけでは決してありません。日本人は自治体によって分別を「強制」されているので(つまり、分別しないとごみを収集してくれないので)、分別収集に協力せざるをえなくなっているというのが実態なのです。
タイでも、学校やNGO等を中心に、ごみ銀行(ごみを持って行くと、それを金額換算して銀行預金としてくれる)や、有価ごみを栄養価の高い卵に交換してくれる運動(Garbage for Eggs)や、EM菌を利用した生ゴミの堆肥化に取り組む等、小規模なリサイクル活動が始まってきていますが、まだまだ規模が小さく散発的なことが弱点です。今後、リサイクル活動を本格化し広域に普及していくためには、どうしても地方自治体による誘導政策が必要だといえます。参考までに、下記にごみを原材料にして装飾品を作って販売している、タイ東北部のシサケットの学校の写真と、コンケンでNGOが生ゴミから堆肥を作っている様子の写真をつけておきます。

ごみを原材料にして装飾品を作って販売しているタイ東北部のシサケットの学校

生ゴミから堆肥を作っているコンケン市のNGO
したがって、自治体がごみの分別収集の必要性(リサイクル率の向上とごみ収集・処理コストの低減に有効)を住民に十分に説明して実施に移していくという「強い意志」を持つことがまずなによりも重要だと私達は考えており、そのようにタイの自治体にはっぱをかけています。もっともごみ収集サービスが普及していない地域、すなわちごみがどこにでも投げ捨てられているような地域では、まずはごみ収集サービスを普及して、住民の衛生観念向上と衛生的な環境作りを確立することが先決だといえますが。
(5)日本の民間企業の参入可能性と政府による支援政策の重要性
これまでにもタイに進出してきた日本の廃棄物処理業者がないわけではないのですが、すべて工業団地における日系企業の産業廃棄物処理を対象にしており、地方自治体が扱っている一般廃棄物処理にはまだどの日本企業も手を出しておりません。2002年のタイ全体のごみ発生量でいえば、有害産業廃棄物は96万3000トンですが、一般廃棄物は1440万トンと1.5倍の量が発生しています。一般廃棄物の内容としては、生ゴミ(51%)、プラスティック類(22%)、紙(13%)、ガラス類(3%)等が主なものです。
日本企業が一般廃棄物処理にまだ手を出していない原因のひとつには、産業廃棄物処理(特に有害廃棄物処理)は一般廃棄物処理に比べて約10倍の処理料金を排出源の民間企業から徴収できるのに対し、一般廃棄物については各世帯から毎月定額のごみ料金(1世帯あたり月20〜40バーツ程度、1バーツは約3円)を集めているが、このごみ料金が安すぎることと料金徴収率が20%程度ときわめて低いことがあげられます。実際、どの自治体もごみ収集・処理に関しては赤字で運営しており、住民からの税金で赤字を補填しています。(実は日本でも、家庭ごみの収集・処分料金の多くは税金でまかなわれていますが)
つまり、民間企業としては、ごみ料金を費用にみあった金額に増額する(つまり、法律によって月40バーツと上限額が決められているごみ料金の上限額を撤廃し、従量制の料金体系へと移行する)ことが可能になり、また、ごみ処理だけではなかなかもうかる事業にはならないので、より利益がでやすいリサイクル事業等(生ごみの堆肥化やバイオガス発電も含みます)をあわせて実施するために、現在インフォーマルにリサイクルを行っている人達(Salengという三輪車で家庭から有価ごみを買い取って回る人達、収集途中で有価物を抜き取る市の収集人達、ごみ捨て場で有価物をあさる人達、と3段階で有価物が抜き取られる構造になっています)を今後どうするのかを政府がはっきりした態度を取ってくれない限り、リスクが大きすぎて投資できないというのが実状なのです。
実は日本の廃棄物処理業者も、創業者はインフォーマルな廃品回収業者から出発したところが多く、その歴史を考えれば、タイでもごみのリサイクルをインフォーマルに実施している人達を組織化し、リサイクル産業へと再編していく可能性は十分あるといえます。そして、そのためには政府による「政策的な誘導」が重要だと私達は考えています。シサケットでは、最終処分場に暮らしているごみあさりの人達(下記写真)を登録して、徐々に組織化を図っていこうという動きも出ています。

シサケットの最終処分場に暮らしているごみあさりの人達
つまり、ごみ収集・処理の民間委託を促進するためには、地方自治体が単に民間企業に丸投げ的に委託契約を行うのではなく、地方自治体がごみ料金に関する新政策やごみの分別収集やリサイクルに関する新政策を立案・実施して、民間が投資しやすい環境をまず作り、さらに民間が創意工夫をこらせるような柔軟な形の契約形態を用意することが大切なのです。
(6)タイの民営化の失敗の経験と政府の役割の重要性
タイ政府は1992年の国家環境品質法(NEQA)で、地方自治体がごみ処理サービスを民営化することを許可しており、その後の国家開発計画でも効率的なサービス提供と国家財政への負担の減少の観点から民営化が推奨されていますが、これまで民営化のケースは少なく、またそのわずかな民営化の例でも成功例はさらに少なかったのが実態です。ピサヌローク等の市では、民営化後満足のいくサービスが民間企業から提供されなかったため、再び公営化したほどです。このような民営化の失敗の大きな原因は、上述したような地方自治体が果たすべき政策面からの支援をおろそかにしたまま、民間企業に丸投げ的に安易に民営化を実施した点にあるといえます。その意味から、本調査では民営化(Privatization)という言葉を避け、官民協力(Public-Private Partnership)という言葉を使用して、「政府が果たすべき役割」を強調しています。
(7)タイの民間企業の能力育成の必要性
また、タイの民間企業の方も十分な能力がないまま、安易に委託契約を引き受けたところが多く、契約上のサービスさえ満足に提供できずに撤退した会社もあります。そこで、本調査では日本の廃棄物処理業者がタイの廃棄物処理業者に技術・資金協力する可能性についても検討しており、現在関心のあるタイ企業と日本企業の間でお見合いの話を少しずつ進めております。日本企業としては、すぐにタイに投資するというリスクはなかなかとれませんので、まずは人的交流やつきあいを深めていくところから始めて行きたいと考えています。
(8)自治体間連携による広域施設の可能性
本調査でもうひとつ議論になっているのは、タイの自治体間の協力・連携による広域ごみ選別・処分施設の建設・運営の可能性です。日本では、都市部で最終処分場(埋立地)を作る立地が限られてきているため、都市が周辺の市町村と協力して(複数の市町村による広域衛生組合を設立して)、参加する自治体がごみ量に応じて資金を分担して、周辺の町村部に立地する広域ごみ選別・処分施設を建設・運営するという例があります(町村部の自治体にとっては、単独でごみ処理施設を建設するより少ない分担金で施設ができるというメリットがあります)ので、このタイ版ができないかと検討しているわけです。
タイの地方自治体は、バンコク首都圏とパタヤ特別市以外に、Provincial Administrative Organizations(略称PAO、全国に76ある、日本でいう県庁にあたる)、Municipalities(全国に1,129ある、日本でいう市役所にあたる)、Tambon Administrative Organizations(略称TAO、全国に6,746ある、日本でいう村役場にあたる)というさまざまなレベルからなっていますが、ごみ問題でこれまで環境保全基金が融資の対象としてきたMunicipalitiesは実はまだましな状況の方で、一番の問題は全くごみ収集・処理が行われていない(つまり、ごみが投げ捨て状態にある)TAOが農村部に多数あることです。
そこで、私達はMunicipalitiesに周辺部のTAOを巻き込んだ形での広域ごみ選別・処理施設を建設できないかと考えているのですが、じつはすでに周辺部のTAOからのごみを受け入れているMunicipalitiesは結構あります。問題は、周辺部のTAOとの政策協調がなく、また非常に安価にごみを受け入れているため(1トン130-200バーツ程度)、埋立地の残り容量が少なくなってきたので、ごみ減量やリサイクルに取り組もうとしても、周辺のTAOからの協力が得られる保証がないという点にあります。そこで、本調査団では、広域自治体連合(Union)のような組織をまず作ってもらい、そのような場で各自治体間が対等の立場でゴミ料金や分別収集・リサイクル制度に関する政策協議や政策協調を行える体制を構築してから、広域ごみ選別・処分施設を建設・運営することを提案しています。
日本では、中央政府による地方自治体のごみ選別・処分施設への補助金は、対象となる市町村のごみ量に応じた規模の施設に対してしかでませんので、効率のよい大規模処理施設を作るためには、自治体が広域自治体連合をつくって補助金を申請する必要があったのですが、ここタイでは実際の地方自治体におけるごみ需要よりも大規模なごみ処理施設が環境保全基金からの融資等で建設される例が多く、また地方自治体同士で協力し合って広域ごみ処分場を建設する政策的な仕組みもまったくできていませんので、今後はゴミ発生量に応じた融資規模の適正化や、自治体間連携による広域処分場建設への促進策・優遇策といった政策が必要といえます。
以上、調査の内容を簡単に報告させていただきましたが、実は私はタイの専門家でもなく、またごみの専門家でもありません。したがいまして、上述の内容のほとんどがこの調査期間中に、団長を始めとするメンバーの方々から、門前の小僧よろしく学ばせていただいたことなのですが、私の理解力不足や不勉強のために、不注意に間違って記述してしまったこともあるかもしれません。その際は後学のためにも遠慮なく間違いをご指摘していただければ幸いです。
インドネシア・メラピ火山登頂
インドネシアでは先週、東ジャワ州のブロモ山が噴火し、観光客2名が落石に当たって死亡しましたが、その前の週の2004年5月30日(日)に、インドネシアの中部ジャワ州のメラピ山(標高2911 m)に日帰り登山に行ってきましたので、その時の記録を書いておきます。メラピ山はインドネシアでもっとも活動的な火山といわれ、ほぼ3ー4年ごとに噴火しているそうです。最後の噴火が2001年でしたので、そろそろいつ噴火してもおかしくないと地元の人々は言っていました。ブロモ山と違って噴火しなかったのは、本当にラッキーだったのかもしれません。

麓から見たメラピ山の美しい姿
(1)メンバー(4名)
・増田知子さん(国際開発センター)
・田中清文(国際開発センター)
・Mr. Mohammad Yusuf(英語・フランス語のできる大学生ガイド、カリマンタン出身)
・Mr. Gino(登山口のBabadan村に住むガイド、英語はできない)
(2)利用したツアー会社(ジョグジャカルタ)
Azimuth Adventure Travel Ltd.
(Mr. Dominique Clarisse, General Manager(フランス人))
住所:Jalan Seruni 1 Karangasem Baru, Yogyakarta - Indonesia
Phone: +62-274-542812
Fax: +62-274-582847
E-mail: info@azimuth-travel.com
Home Page: http://www.azimuth-travel.com/
(3)ツアー料金
1人629,000 Rp.(約7,860円)(ジョグジャカルタからの車代、英語のできるガイド代、朝食・昼食代、ミネラル・ウオーター代、入山料、雨具代を含む)(注:上記は2人の時の料金。4人だと1人369,000 Rp.になる)
(4)行程予定
Yogyakarta 早朝3:15出発ー(車で1時間)ーBabadan(メラピ山西北西の村、標高1278 m)ー(標高差1600 mの登り:5〜6時間)ーPuncak Garuda(山頂2911 m)ー(標高差1200 mの下り:3〜4時間)ーSelo(メラピ山北の村、標高1500 m)ー(車で1.5時間)ーYogyakarta 17〜18:00帰着
(5)行程の選択・概要
メラピ山への登山道は北のSeloから、西のBabadanから、南のKaliurang Mountain Resortの奥のKimahrejo村からと3つあったが、南からのルートは1994年の噴火時の溶岩で今は通行止めである。一番ポピュラーなのは、距離的に一番近い北のSeloからのルートで、Seloからの登山者は通常深夜0時〜2時頃に登り始め、暗い山道を懐中電灯で登って、朝6〜8時頃に山頂についてご来光をみるという。しかし、Seloからのルートは急坂でまた景色は楽しめないコースなので、今回は西のBabadanからのルートから景色を楽しみながら登り、北のSeloへと降りることにした。
(6)実際の行程の記録
2004年5月30日(日)
朝3:30:ジョグジャカルタのホテル(Hotel Kristina、Jl. Dagen No. 71A, Yogyakarta. Phone 0274-512076;エアコン、TV、ホット・シャワーとトイレ付きの清潔な部屋で、1泊90,000 Rp.)を車で出発。昨晩は大雨だったが、雨はやんで、空も晴れているようでひと安心。Babadan村への途中、夜の闇に乗じて火山の谷から砂利をトラックで盗み出す一行と出会う。
4:30:登山口のBabadan村(標高1278 m、メラピ山頂から西北西に4.4 kmにある)に到着。Volcano Observatory Post(下の写真)で、地震計が自動的に記録している様子や、最後に噴火した年である2001年1月、6月、8月、10月の噴火の写真を見る。

登山口のBabadan村のVolcano Observatory Post
5:00:ガイドのユスフ君のお祈りが終わるのを待ってからBabadan村を出発。最初の30分ほどはまだ暗い段々畑と樹林帯の中を歩くので、懐中電灯を使用。
5:40-45:休憩。途中で、柱状節理の古い谷(下で砂利をとっていた谷の上部)をのぞき見る。
6:15-25:休憩。尾根上にでる。少し雨と風があるが、虹も出ている(下の写真)。谷を横断して北側の尾根に移動する。

尾根に出ると、虹が出た
7:00-30:休憩。朝食(フランスパンの手作りサンドイッチ)を食べる。時々晴、時々雨という感じの天気。また谷を横断して北側の尾根に移動する。
8:30-40:休憩。尾根の上で、北側の雲から突き出たメルバブ山(標高3150 m)が見える(下の写真)。標高はメルバブ山の方が高いが、とがった頂上や活火山であること(メラピとは「火の山」という意味)、ジョグジャカルタの人々にとっての信仰の山であることから、メルバブ山よりもメラピ山(発音は「ムラピ」に近いが、日本では一般に「メラピ火山」で知られているので、ここでは「メラピ山」と呼ぶ)の方が人気という。このころから天気はよくなってきた。山の下の方は雲がかかっている。道はこけむしていて、少しすべりやすい。

北にメルバブ山が見える
8:55-9:00:休憩。低い灌木の生えた尾根の上。
9:30-40:休憩。谷の横のこけむした岩状の尾根の上。展望がよく、山頂が見える。谷に入って、少し谷を歩いて登り(下の写真)、また別の尾根に登る。現地の女性3人が豆(kara beansという、においがきつい)を集めて帰るところに出会う。全員裸足だった。

頂上目指して谷を昇る
10:50-11:00:休憩。灌木帯を越えた、ごろごろした岩尾根の上。消耗した増田さんの足や腕をガイドのユスフ君がカルプチ・オイル(ユーカリのオイル?)を塗りながらマッサージしてくれる。ここからは、かたい岩の尾根でどこでも登れて快適。
11:35-55:Seloからの道とのジャンクション(Pasar Bubrah)に着く。このころから急速に天候が悪化。山頂はガスで全く見えなくなる。毎日、午後になると、山頂付近はガスが出て展望がきかなくなるとガイドブックに書いてあったが、まさにその通りの展開になる。増田さんとユスフ君はここで待つことになり、荷物を置いて現地ガイドのギノ氏と山頂を目指す。
荷物がなくなったため、急にペースがあがり、15分ほどでばてる。唯一持ってきた600 mlのミネラル・ウオーターを飲んでいると、ギノ氏が俺にもくれと身振りで合図してくる。なんと彼はガイドのくせに水も持たずに頂上アタックにきたのであった。仕方なくミネラル・ウオーターを回すと、おいしそうにしっかり半分を飲み尽くされた。このあと、節水モードで歩くことにする。
12:40-50:Puncak Garuda(山頂、Eagle Peakの意味)に到着(下の写真)。山頂までに偽ピークが多く、ガスの中、本当の山頂はどこかわかりにくい。山頂でもまったく景色は見えない。残念。偽ピークの近くからは、硫黄ガスが吹き出しているので、記念に硫黄で黄色くなった石を拾ってくる。山頂は大きな一枚岩。ジャンクションからの登りに45分かかり、下りは30分かかった。下りで早くも膝ががくがくになり、笑い始める。

メラピ山の山頂Puncak Garuda(標高2911 m)
13:20-50:ジャンクション(Pasar Bubrah)に戻って、昼食(カップヌードルとミカンとシーチキン・サラダ缶)を食べる。ガスの中、雨になる。下りは尾根では横殴りの風を受けて、濡れた手が冷たい。軍手か手袋をもってくるんだったと後悔する。急な岩の坂道を降りるが、思ったほどすべらなかった。途中でインドネシア人の若者3人組(男性1人、女性2人)を追い抜く。皆、裸足にサンダルばきで来ているのに驚く。この風と雨では足が冷たくなっているに違いない。
14:40:雨と風に吹きさらされていた岩尾根を終了し、樹林帯に入り、ほっと一息つく。このあたりになると増田さんが元気になり、膝が笑いながら降りている田中は後に取り残されがちになる。濡れた道で2回すべってころぶ。Selo手前で、上述のインドネシア人の若者3人組の友人が心配をしてまた登り直していくのに出会う。
15:30-16:00:Seloに到着。ジャンクションからほとんど休憩なしで降りてきたからか、予想よりも早く着いた(ジャンクションから1時間40分)。お世話になったガイド2人と運転手にチップを渡す(ユスフ君100,000 Rp.、ギノ氏50,000 Rp.、運転手30,000 Rp.)。Seloで撮ったメンバー全員の記念写真を下記にのせておきます。

メラピ山登山を終えて
17:30:Yogyakarta空港に到着。19:00発(実際には1時間ほど遅れた)の飛行機便でジャカルタに戻る。
なお、もっとメラピ山登山の写真を見たいという方は、私の写真ホームページにアクセスしてください。195枚のデジカメ写真が一覧できます。

麓から見たメラピ山の美しい姿
(1)メンバー(4名)
・増田知子さん(国際開発センター)
・田中清文(国際開発センター)
・Mr. Mohammad Yusuf(英語・フランス語のできる大学生ガイド、カリマンタン出身)
・Mr. Gino(登山口のBabadan村に住むガイド、英語はできない)
(2)利用したツアー会社(ジョグジャカルタ)
Azimuth Adventure Travel Ltd.
(Mr. Dominique Clarisse, General Manager(フランス人))
住所:Jalan Seruni 1 Karangasem Baru, Yogyakarta - Indonesia
Phone: +62-274-542812
Fax: +62-274-582847
E-mail: info@azimuth-travel.com
Home Page: http://www.azimuth-travel.com/
(3)ツアー料金
1人629,000 Rp.(約7,860円)(ジョグジャカルタからの車代、英語のできるガイド代、朝食・昼食代、ミネラル・ウオーター代、入山料、雨具代を含む)(注:上記は2人の時の料金。4人だと1人369,000 Rp.になる)
(4)行程予定
Yogyakarta 早朝3:15出発ー(車で1時間)ーBabadan(メラピ山西北西の村、標高1278 m)ー(標高差1600 mの登り:5〜6時間)ーPuncak Garuda(山頂2911 m)ー(標高差1200 mの下り:3〜4時間)ーSelo(メラピ山北の村、標高1500 m)ー(車で1.5時間)ーYogyakarta 17〜18:00帰着
(5)行程の選択・概要
メラピ山への登山道は北のSeloから、西のBabadanから、南のKaliurang Mountain Resortの奥のKimahrejo村からと3つあったが、南からのルートは1994年の噴火時の溶岩で今は通行止めである。一番ポピュラーなのは、距離的に一番近い北のSeloからのルートで、Seloからの登山者は通常深夜0時〜2時頃に登り始め、暗い山道を懐中電灯で登って、朝6〜8時頃に山頂についてご来光をみるという。しかし、Seloからのルートは急坂でまた景色は楽しめないコースなので、今回は西のBabadanからのルートから景色を楽しみながら登り、北のSeloへと降りることにした。
(6)実際の行程の記録
2004年5月30日(日)
朝3:30:ジョグジャカルタのホテル(Hotel Kristina、Jl. Dagen No. 71A, Yogyakarta. Phone 0274-512076;エアコン、TV、ホット・シャワーとトイレ付きの清潔な部屋で、1泊90,000 Rp.)を車で出発。昨晩は大雨だったが、雨はやんで、空も晴れているようでひと安心。Babadan村への途中、夜の闇に乗じて火山の谷から砂利をトラックで盗み出す一行と出会う。
4:30:登山口のBabadan村(標高1278 m、メラピ山頂から西北西に4.4 kmにある)に到着。Volcano Observatory Post(下の写真)で、地震計が自動的に記録している様子や、最後に噴火した年である2001年1月、6月、8月、10月の噴火の写真を見る。

登山口のBabadan村のVolcano Observatory Post
5:00:ガイドのユスフ君のお祈りが終わるのを待ってからBabadan村を出発。最初の30分ほどはまだ暗い段々畑と樹林帯の中を歩くので、懐中電灯を使用。
5:40-45:休憩。途中で、柱状節理の古い谷(下で砂利をとっていた谷の上部)をのぞき見る。
6:15-25:休憩。尾根上にでる。少し雨と風があるが、虹も出ている(下の写真)。谷を横断して北側の尾根に移動する。

尾根に出ると、虹が出た
7:00-30:休憩。朝食(フランスパンの手作りサンドイッチ)を食べる。時々晴、時々雨という感じの天気。また谷を横断して北側の尾根に移動する。
8:30-40:休憩。尾根の上で、北側の雲から突き出たメルバブ山(標高3150 m)が見える(下の写真)。標高はメルバブ山の方が高いが、とがった頂上や活火山であること(メラピとは「火の山」という意味)、ジョグジャカルタの人々にとっての信仰の山であることから、メルバブ山よりもメラピ山(発音は「ムラピ」に近いが、日本では一般に「メラピ火山」で知られているので、ここでは「メラピ山」と呼ぶ)の方が人気という。このころから天気はよくなってきた。山の下の方は雲がかかっている。道はこけむしていて、少しすべりやすい。

北にメルバブ山が見える
8:55-9:00:休憩。低い灌木の生えた尾根の上。
9:30-40:休憩。谷の横のこけむした岩状の尾根の上。展望がよく、山頂が見える。谷に入って、少し谷を歩いて登り(下の写真)、また別の尾根に登る。現地の女性3人が豆(kara beansという、においがきつい)を集めて帰るところに出会う。全員裸足だった。

頂上目指して谷を昇る
10:50-11:00:休憩。灌木帯を越えた、ごろごろした岩尾根の上。消耗した増田さんの足や腕をガイドのユスフ君がカルプチ・オイル(ユーカリのオイル?)を塗りながらマッサージしてくれる。ここからは、かたい岩の尾根でどこでも登れて快適。
11:35-55:Seloからの道とのジャンクション(Pasar Bubrah)に着く。このころから急速に天候が悪化。山頂はガスで全く見えなくなる。毎日、午後になると、山頂付近はガスが出て展望がきかなくなるとガイドブックに書いてあったが、まさにその通りの展開になる。増田さんとユスフ君はここで待つことになり、荷物を置いて現地ガイドのギノ氏と山頂を目指す。
荷物がなくなったため、急にペースがあがり、15分ほどでばてる。唯一持ってきた600 mlのミネラル・ウオーターを飲んでいると、ギノ氏が俺にもくれと身振りで合図してくる。なんと彼はガイドのくせに水も持たずに頂上アタックにきたのであった。仕方なくミネラル・ウオーターを回すと、おいしそうにしっかり半分を飲み尽くされた。このあと、節水モードで歩くことにする。
12:40-50:Puncak Garuda(山頂、Eagle Peakの意味)に到着(下の写真)。山頂までに偽ピークが多く、ガスの中、本当の山頂はどこかわかりにくい。山頂でもまったく景色は見えない。残念。偽ピークの近くからは、硫黄ガスが吹き出しているので、記念に硫黄で黄色くなった石を拾ってくる。山頂は大きな一枚岩。ジャンクションからの登りに45分かかり、下りは30分かかった。下りで早くも膝ががくがくになり、笑い始める。

メラピ山の山頂Puncak Garuda(標高2911 m)
13:20-50:ジャンクション(Pasar Bubrah)に戻って、昼食(カップヌードルとミカンとシーチキン・サラダ缶)を食べる。ガスの中、雨になる。下りは尾根では横殴りの風を受けて、濡れた手が冷たい。軍手か手袋をもってくるんだったと後悔する。急な岩の坂道を降りるが、思ったほどすべらなかった。途中でインドネシア人の若者3人組(男性1人、女性2人)を追い抜く。皆、裸足にサンダルばきで来ているのに驚く。この風と雨では足が冷たくなっているに違いない。
14:40:雨と風に吹きさらされていた岩尾根を終了し、樹林帯に入り、ほっと一息つく。このあたりになると増田さんが元気になり、膝が笑いながら降りている田中は後に取り残されがちになる。濡れた道で2回すべってころぶ。Selo手前で、上述のインドネシア人の若者3人組の友人が心配をしてまた登り直していくのに出会う。
15:30-16:00:Seloに到着。ジャンクションからほとんど休憩なしで降りてきたからか、予想よりも早く着いた(ジャンクションから1時間40分)。お世話になったガイド2人と運転手にチップを渡す(ユスフ君100,000 Rp.、ギノ氏50,000 Rp.、運転手30,000 Rp.)。Seloで撮ったメンバー全員の記念写真を下記にのせておきます。

メラピ山登山を終えて
17:30:Yogyakarta空港に到着。19:00発(実際には1時間ほど遅れた)の飛行機便でジャカルタに戻る。
なお、もっとメラピ山登山の写真を見たいという方は、私の写真ホームページにアクセスしてください。195枚のデジカメ写真が一覧できます。
ケニア医療人類学調査と女子割礼の発表
ちょっと前のことになりますが、2004年2月27日(金)に大阪・千里万博公園の国立民族学博物館に呼ばれまして、「アフリカ女性史に関する基礎的研究」という研究会が企画されたワークショプ「女子割礼(FC/FGM)研究の新しい地平をもとめて」に参加し、私も自分が1997年から1998年にかけて実施しましたケニア西部(キシイ県、グッチャ県、ニャミラ県、ケリチョ県、ボメット県)での医療人類学調査と女子割礼の現状と現地NGOの対応について報告をしてきました。その時の発表レジュメ(日本語)と職場のWorking Paper Seriesとして書いた英文の報告書のファイルをダウンロードできるように下記に置いておきますので、ご関心ある方は、どうぞダウンロードしてお読みください。
●ケニアの医療人類学調査と女子割礼(FGM)
ファイルのダウンロード
●Medical Anthropological Study in Western Kenya and Its Implications for Community Health Development (IDCJ Working Paper Series No. 55, 2000)
ファイルのダウンロード
●ケニアの医療人類学調査と女子割礼(FGM)
ファイルのダウンロード
●Medical Anthropological Study in Western Kenya and Its Implications for Community Health Development (IDCJ Working Paper Series No. 55, 2000)
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モザンビークの参加型村落開発の発表
初めまして。アジアやアフリカの国で社会開発コンサルタントをしているkiyokiyoです。
私が2000年から2002年に関わったモザンビークでの参加型村落開発の経験を基に、2004年4月24日(土)に国際開発学会の「社会調査の品質向上」研究部会第5回研究会(兼 第88回「開発援助と人類学」勉強会)で、「参加型農村調査の挫折から参加型村落開発のプロセスへ:モザンビーク国除隊兵士再定住地域村落開発計画調査の経験から」と題する発表をしました。その時の報告要旨とレジュメと議事録をご参考までに以下にアップしておきます。もし読まれたら、コメント、質問、ご批判、なんでも大歓迎ですので、よろしくお願いいたします。
●国際開発学会「社会調査の品質向上」研究部会 第5回研究会
(兼 第88回「開発援助と人類学」勉強会)
●日時 平成16年4月24日(土)午後3時〜5時半
●場所:国際協力機構(JICA)東京国際センター(TIC)
●報告者 田中清文((財)国際開発センター 主任研究員)
●報告テーマ
「参加型農村調査の挫折から参加型村落開発のプロセスへ:
モザンビーク国除隊兵士再定住地域村落開発計画調査の経験から」
●報告内容(要旨)
報告者は2000年7月から2002年11月まで約2年間にわたって、南部アフリカの国モザンビークにおいて、JICA(国際協力機構)による開発調査というスキームで、住民の自立開発を目的とした村落開発プロジェクトに取り組んできました。調査の初期にいわゆる参加型農村調査を実施しましたが、さまざまな問題が噴出し、結局有効なアウトプットをあまり生み出せませんでした。その反省から、参加型調査を実施するよりも、地域住民の視野を広げてさまざまな開発のためのオプションがあることをわかってもらうことが先決と、さまざまな研修、スタディ・ツアー、パイロット事業の実施を行ってきました。参加型開発に参加型調査や社会調査は本当に有効なのかどうかを皆様と一緒に考えてみたいと思います。
●コメンテーター 花谷厚(JICAアフリカ部東部アフリカチーム長)
●報告レジュメ
ファイルのダウンロード
●議事録
ファイルのダウンロード
私が2000年から2002年に関わったモザンビークでの参加型村落開発の経験を基に、2004年4月24日(土)に国際開発学会の「社会調査の品質向上」研究部会第5回研究会(兼 第88回「開発援助と人類学」勉強会)で、「参加型農村調査の挫折から参加型村落開発のプロセスへ:モザンビーク国除隊兵士再定住地域村落開発計画調査の経験から」と題する発表をしました。その時の報告要旨とレジュメと議事録をご参考までに以下にアップしておきます。もし読まれたら、コメント、質問、ご批判、なんでも大歓迎ですので、よろしくお願いいたします。
●国際開発学会「社会調査の品質向上」研究部会 第5回研究会
(兼 第88回「開発援助と人類学」勉強会)
●日時 平成16年4月24日(土)午後3時〜5時半
●場所:国際協力機構(JICA)東京国際センター(TIC)
●報告者 田中清文((財)国際開発センター 主任研究員)
●報告テーマ
「参加型農村調査の挫折から参加型村落開発のプロセスへ:
モザンビーク国除隊兵士再定住地域村落開発計画調査の経験から」
●報告内容(要旨)
報告者は2000年7月から2002年11月まで約2年間にわたって、南部アフリカの国モザンビークにおいて、JICA(国際協力機構)による開発調査というスキームで、住民の自立開発を目的とした村落開発プロジェクトに取り組んできました。調査の初期にいわゆる参加型農村調査を実施しましたが、さまざまな問題が噴出し、結局有効なアウトプットをあまり生み出せませんでした。その反省から、参加型調査を実施するよりも、地域住民の視野を広げてさまざまな開発のためのオプションがあることをわかってもらうことが先決と、さまざまな研修、スタディ・ツアー、パイロット事業の実施を行ってきました。参加型開発に参加型調査や社会調査は本当に有効なのかどうかを皆様と一緒に考えてみたいと思います。
●コメンテーター 花谷厚(JICAアフリカ部東部アフリカチーム長)
●報告レジュメ
ファイルのダウンロード
●議事録
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